【第五話:金色の鏡 —— 神君伊賀越えの幕開け】
天正十年、六月。
和泉国・堺の町に、激震が走った。
茶屋四郎次郎が血相を変えて飛び込んできた時、五郎は石川数正と共に、安土での緊張をわずかに解いた束の間の休息の中にいた。
「……本能寺にて、信長公討死! 明智光秀の謀叛にございます!」
その一言で、五郎の時が止まった。
数正の手から茶碗が落ち、畳の上で乾いた音を立てて砕ける。
正体を知る唯一の理解者であり、最大の脅威であった織田信長が消えた。それは同時に、四方を敵に囲まれた地で、徳川家が路頭に迷うことを意味していた。
「……信長公が」
五郎の脳裏に、安土の夜の信長の言葉が蘇る。
『墓まで持っていってやる。偽物よ、そのまま神にまで成り上がれ』
魔王は、本当にその秘密を抱いたまま、炎の中に消えてしまった。五郎の中に、言いようのない空虚感と、背筋を這い上がるような死の予感が広がった。
「もはやこれまで。京へ突撃し、光秀と刺し違えて果てるほかございませぬ!」
「落ち着け! 今は生き延びる道を……!」
動揺し、自失する家臣たち。その混乱の中、一人の男が影の中から音もなく姿を現した。服部半蔵である。
「……道は、ございます。伊賀を抜けまする」
「伊賀だと? あの怨嗟の地をか! 野伏に首を撥ねられるのが関の山だ!」
家臣団が躊躇し、絶望が広間を支配しようとしたその時、雷鳴のような声がすべてを圧した。
「——案ずるな。殿の命、この平八郎が必ずや守り抜く!」
本多平八郎忠勝である。
蜻蛉切を握りしめ、仁王立ちするその背中は、どんな千軍万馬をも跳ね返す金剛石の如き決意に満ちていた。
五郎がその背を見つめた時、忠勝は一瞬だけ振り返った。その瞳には、かつて浜松城の闇の中で決めた、揺るぎない「誓い」が宿っていた。
元亀四年(一五七三年)、春。浜松城。
三方ヶ原の惨敗から数ヶ月。城内には依然として張り詰めた空気が漂っていた。
深夜、人気のない回廊。筆頭家老・酒井忠次が足早に通り過ぎようとした時、闇の中から一人の男が音もなく立ち塞がった。
「……酒井殿。少々、刻をいただきたい」
本多平八郎忠勝である。その手に握られた名槍・蜻蛉切の石突が、静かに、だが重く畳を叩いた。
「平八郎か。夜更けに何用だ。殿は既にお休みだぞ」
忠次は老練な微笑を浮かべ、歩みを止めようとはしない。だが、忠勝の瞳に宿る、逃れられぬ獲物を射抜くような鋭い光に、わずかに背筋を凍らせた。
「……単刀直入に伺う。あの方は、本当に『家康公』か」
忠次は一瞬、呼吸を止めた。だが、すぐに鼻で笑ってみせる。
「何を馬鹿なことを。敗北の痛手、そして瀬名様らとの確執……。三方ヶ原の地獄が殿を変えたのだと、皆も知っておることではないか」
「……俺の目は、誤魔化せぬ」
忠勝が一歩、踏み出す。その圧倒的な武人の威圧感に、忠次は足を止めざるを得なかった。
「あの日……三方ヶ原から敗走する折、俺は自分の馬に殿を無理やり引き上げ、後ろに乗せた。……その時、背中に伝わってきた『重み』が違うのだ。本物の殿なら、どれほど窮地に陥ろうと、芯には徳川を背負う金剛石のような固さがあった。だが、あの日俺が乗せた御方の背中は……震えていた。己の無力さを呪い、泥を啜るような、一人の若者の震えだった」
忠次は沈黙した。忠勝の言葉は、理屈ではなく「肌」で感じた真実だったからだ。
「さらに、その直後だ。我が叔父本多忠真が、殿を逃がすために殿を務め、討死したと報せが入った時。……あの方は、全軍の主君としてあるまじき声を上げた。あれは、武門の棟梁が将の死を悼む声ではない。……愛する師を失った弟子の絶望だ。あの一瞬、あの方の中から『徳川家康』が消え、別の何者かが顔を出した。……俺は、それを見てしまったのだ。
そして何より……瞳が違う。あの方は、殿以上に深く、重い地獄を背負っておられる。……あれは、生まれながらの主君の瞳ではない。……何かを奪い、何かを失った『影』の瞳だ」
忠勝の瞳が、湿り気を帯びる。
「……酒井殿。隠し通せるとは思うな。あの方が偽物なら、俺は今ここでこの城を去る。徳川が嘘で塗り固められるなら、武士として付き合う道理はない。……だが」
忠勝は、回廊の先、五郎が独り政務に励んでいるであろう奥殿を仰ぎ見た。
「……もしあの方があの地獄で、本物の殿の遺志を継ぎ、己の人生を捨ててまで『影』として生きる覚悟を決めた者だと言うのなら。……俺は、その魂に惚れた。その男に、俺の命を預ける覚悟だ」
重い沈黙が流れた。
やがて、忠次は深く、重い溜息を吐いた。最強の武人の直感を、もはや言葉で欺くことはできない。
「……。平八郎、お前の目は恐ろしいな」
忠次は声を潜め、震える唇で「五郎」の名を明かした。
兄の影として生まれ、名前さえ剥奪されて生きてきた男が、今、死んだ兄の代わりに徳川を背負っているという真実を。
それを聞き終えた忠勝は、意外にも、晴れやかな顔で笑った。
「……そうか。五郎殿、か。……良い名を隠しておられたものだ」
「……平八郎。殿を、五郎殿を憎むか」
「……まさか。血筋など、どうでも良い。……あの日、泥水を啜って逃げ延びた俺たちの前に立ち、家臣を捨てず、自分を殺してまで『徳川家康』を演じ抜くと決めたあの男の覚悟……。俺は、その『業』の深さに救われたのだ」
忠勝は、蜻蛉切を握り直した。
「……安心なされ、酒井殿。……このことは、俺と貴殿の墓場まで持っていく。……俺が守るのは、家康公という『名』ではない。……徳川を守ろうと足掻く、あの御方の『命』だ。……今日より、俺は殿の影を照らす金色の鏡、殿をお守りする金剛の盾となろう」
それ以来、忠勝は五郎に対して、以前にも増して猛烈な忠誠を誓うようになった。
それは、五郎が「誰であれ」、徳川のために命を削るその姿を、本物以上に愛してしまったからであった。
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「殿……参りましょう」
忠勝の声に、五郎は静かに頷いた。
目の前にいる忠勝は、五郎が「五郎」であることを知った上でなお「徳川家康」としての彼を命を懸けて守ると言っているのを、五郎は知らない。
「……皆、聞け」
五郎の声が、広間に響く。それは、安土で信長に投げかけた時と同じ、覚悟の決まった声であった。
「私たちは生き延びる。伊賀を抜け、三河へ戻り……信長公が託された、この歴史の続きを全うする。……平八郎、半蔵。命、預けるぞ」
「はっ!!」
忠勝の咆哮が、堺の夜を切り裂いた。
黄金の具足が月光を跳ね返し、まさに「金色の鏡」となって五郎の先を照らす。
徳川の運命を背負った、史上最大の逃走劇が今、始まった。




