【第四話:安土の深淵、剥がれ落ちる仮面】
天正十年、五月。安土城。
雲を突くような黄金の天主は、まるで天下の主の傲慢さを形にしたかのようであった。
五郎は、数正に叩き込まれた「家康の歩法」を完璧になぞり、織田信長との饗応の席に臨んでいた。
「……殿、決して目を合わせるなと、あれほど」
背後で数正が、微かな、しかし悲鳴のような声で囁く。五郎はその言葉を背に受けながら、漆黒の瞳で信長を見つめ返した。今の五郎は、妻子をも切り捨てた「怪物・家康」という黄金の仮面を完璧に被っている。
その隣に座る阿茶局は、しどけなく五郎の肩に触れ、あえて信長の前で妖艶に笑ってみせた。
「お館様。我が殿は近頃、私なしでは夜も眠れぬほどの好色にございます。武田を滅ぼした勇姿も、私の膝の上では形無しにございますわ」
阿茶の言葉は、一座の失笑を買った。だが、彼女の瞳の奥は冷徹に澄んでいた。
(……石川数正殿に言われた通りだ。三方ヶ原の敗北以来、殿はあまりに『清廉』に過ぎる。その僧のような静かな佇まいは、魔王・信長の前では一瞬で見抜かれる弱点となる)
阿茶は、五郎が別人であるとは夢にも思っていない。ただ、戦の恐怖によって主君の魂が入れ替わったかのように瑞々しく、脆くなってしまったのだと信じ込んでいた。だからこそ、彼女はあえて「女好きの家康」という卑俗な皮を被せることで、五郎の内に漂う「僧侶のような気配」を必死に覆い隠そうとしていたのである。
だが、饗応役の明智光秀が差し出した魚の膳から、微かな「臭い」が漂った瞬間、五郎の内に眠る魂が、仮面の隙間から漏れ出した。動揺する光秀を、五郎は穏やかな声で庇ってしまったのだ。
「……光秀殿。気に病むことはない。私は、この土地の野菜が何よりの馳走に思える」
五郎の口から漏れた、あまりに澄んだ、慈悲深い声。 信長の眼光が、獲物を射抜く鷲のように鋭く細められた 。
阿茶の指先が、一瞬だけ硬直する。 (……まずい。殿の『僧の気配』が漏れ出した ) 阿茶は即座に、信長の言葉を遮るように扇子で口元を隠し、光り輝くような嘲笑を投げかけた。
「お館様、ご容赦を! 我が殿は浜松の山奥で、薬草と芋ばかりを食らって育たれた田舎者にございます。安土の洗練された潮の香りは、この野暮天には少々早すぎたようですわ。光秀殿、この方は魚の脂よりも、泥のついた大根の方がお似合いなのです。どうぞ、その膳を下げ、代わりに兎の餌でも差し上げてくださりませ!」
一座に爆笑が沸き起こる。信長の視線は、冷笑する阿茶と、困惑した顔で光秀を案じる五郎の間を往復した。
阿茶は必死に五郎の肩に身を寄せ、その耳元に唇を寄せた。
「(……殿、黙って大根をお食みください。今は徳川の主として、卑俗であってください)」
(三方ヶ原以来、殿は時折、魂が抜けたように『正論』を吐こうとなさる 。それを封じ、泥臭い戦国大名という泥を塗り直すのが私の役目。……お館様、どうぞ私という毒に免じて、この『生真面目すぎる化け物』の綻びを見逃してくださりませ)
阿茶は、自分の機転がこの「綻び」を縫い合わせたのだと確信していた 。 だが、彼女はその時、信長の口元に浮かんだ、哀れみにも似た残酷な笑みを見落としていたのである——。
饗応の宴が終わり、夜が更けた頃。家臣たちが引き下がり、広大な広間には信長と五郎、二人だけが残された。
蝋燭の炎が微かに揺れ、信長の鋭い眼光が五郎を射抜く。
信長は盃を置くと、不気味なほど穏やかな声で切り出した。
「……家康。貴様、その酒の香りを嗅ぎ、わずかに眉をひそめたな。毒を疑ったか」
「……滅相もございませぬ。あまりに芳醇な香りに、陶然としておったまでにございます」
五郎は寺で鍛えた平穏な声を絞り出す。しかし、信長はフッと鼻で笑い、身を乗り出した。
「嘘を申せ。貴様が嗅いだのは、酒の香りではない。……その奥に混じった、薬草の匂いだ。貴様、あの酒に紫蘇と肉桂を合わせた薬効があることを見抜いたな」
五郎の背筋に、凍りつくような汗が流れる。
咄嗟に伏せた指のタコ。筆と薬研を長年回し続けた者特有のそれは、武士のそれとは明らかに形が違った。信長の慧眼が、それを見逃すはずもなかった。
「……竹千代は、もっと不器用な男であった。猪のように直情で、医術などという繊細なものには興味も持たぬ、無骨な男であったはずだ」
信長は立ち上がり、ゆっくりと五郎の背後へ回る。首筋に冷たい殺気が触れた。
「貴様、何者だ」
沈黙が、永遠のように長く感じられた。
五郎は、懐にあるお愛の香袋を、そしてその奥に潜む「ひしゃげた元康の紙」を着物越しにそっと押さえた。
ここで嘘を重ねても、この魔王には通用しない。五郎は覚悟を決め、静かに頭を上げた。
「……徳川家康は、三方ヶ原で死にました」
信長の手が止まる。
「私は……あの日、数正殿に拾われた名もなき寺の小僧にございます。本物の兄上が遺したこの国を、そして、一人の女が望んだ泰平を、死ぬまで演じ抜くために……ここに座っております」
五郎の声は、震えてはいなかった。それは「神」になることを受け入れた、一人の人間の、静かな絶望と決意であった。
信長はしばらく無言で五郎を見下ろしていたが、やがて、狂ったような、しかしどこか晴れやかな大笑いを上げた。
「……ハハハ! 案の定よ。やはり、入れ替わっておったか」
信長は五郎の肩を、砕かんばかりに強く掴んだ。
「……とっくに気づいておったわ。あの臆病者の竹千代が、城門を開いて敵を待つなどという狂気の沙汰に耐えうる器ではないことなどな。あのような乾坤一擲の繊細な策、あの無骨者が知りもせぬし、選べもせぬわ。
……だが、貴様自身の口から聞いてみたかったのだ。安心せよ、このことは誰にも言わぬ。墓まで持っていってやる。」
信長は五郎の顔を覗き込み、残酷なほど美しい笑みを浮かべた。
「本物の家康よりも、今の貴様の方が、俺にはよほど使い勝手が良い。……偽物よ、そのまま『神』にまで成り上がれ。この俺が作りすぎた、血塗られた歴史を、貴様のその『嘘の優しさ』で塗り潰してみせよ」
信長はそれ以上、何も語らなかった。ただ、どこか遠い空を見つめ、独り言のように呟いた。
「……私も、いささか疲れた。……明日は、京へ入る」
数日後、本能寺は炎に包まれた。信長は、五郎の正体という「劇薬」を抱いたまま、歴史の灰となった。
安土の城門を出る際、阿茶が、死人のような顔で戻ってきた五郎を待っていた。
「……殿。……ご無事で」
阿茶は震える指先で、五郎の着物の乱れを整えた。彼女は、この数刻で主君と魔王の間にどのような「盟約」が交わされたのかを知る由もない。
(……信長公の眼を逸らすことはできた。殿のあの『生真面目すぎる振る舞い』も、私の芝居で少しは胡麻化せたはず)
阿茶は、自分の「好色の盾」が功を奏したのだと自負していた。五郎が信長本人に正体を明かしたなどとは、微塵も疑っていない。
五郎は、そんな阿茶の献身的な瞳を真っ直ぐに見返すことができず、ただ遠ざかる安土の天主を振り返った。
「……帰ろう。……私たちの、地獄へ」
阿茶は黙って頷き、その後に続いた。
彼女が守っているものが、主君の「性格の変化」ではなく、「存在そのものの嘘」であると知るまで、あと数年の月日が必要であった——。




