【第三話:虚像の凱旋、滲む名は呪縛の如く】
天正十年、三月。
武田勝頼が天目山にて自刃し、長年徳川を苦しめてきた甲斐の虎の血筋は、ここに絶えた。それは、兄・家康が三方ヶ原の泥濘の中で散ったあの日から始まった、長き復讐劇の終焉でもあった。
浜松城、深夜。人払いをさせた奥の間で、五郎は文箱の底から一通の紙を取り出した。
もはや、それは紙としての体をなしていない。
元亀三年のあの夜、数正から手渡された時は、まだ兄の丁寧な筆致がはっきりと見て取れた。血と泥こそ付いていたが、そこには確かに兄の「温もり」が宿っていたのだ。
だが、今のそれはどうだ。
五郎が絶望の淵で、あるいは良心の呵責に耐えかねる夜に、幾度となく握りしめ、泥濘の中に膝を突いては握り潰してきたせいで、無惨にひしゃげ、繊維は逆立ち、文字は幽霊の足跡のように滲みきっている。そこには、三方ヶ原で流れた兄・家康の血の上に、あの二俣城で五郎自らが介錯した嫡男・信康の返り血が、層を成して黒ずんでいた。
かつて、兄が五郎のために、未来を願って一筆一筆に慈しみを込めて書いたはずの文字。
『元康』
その端正であったはずの二文字は、十年の歳月を経て、五郎の指の跡が深く刻まれた「呪縛の塊」へと成り果てていた。
「……兄上。ようやく、武田を滅ぼしましたぞ」
五郎の声は、低い「家康」の響きを捨て、震える一人の男のものに戻っていた。ひしゃげた紙の、最も深く潰れた箇所に指を添える。ここは、信康を手にかけた夜、雨の中で己の拳と共に握りつぶした場所だ。
「見てください。私は、貴方が守りたかった徳川を守るため、貴方の愛した妻も、息子も、この手で殺しました。……この紙を握りしめるたび、手のひらに血の匂いが蘇る。……兄上、これは貴方が私に遺した愛ですか。それとも、私が一生逃れられぬ、貴方という名の牢獄なのですか」
五郎はひしゃげた紙を額に押し当て、声を殺して慟哭した。紙がひしゃげた分だけ、五郎の魂もまた、歪み、削られてきたのだ。夜の静寂の中、彼を包むのは勝利の余韻ではなく、一生消えることのない血の匂いと、逃れられぬ呪縛の重みだけであった。
翌朝、五郎の前に現れたのは、眉間に深い「業」の皺を刻んだ石川数正と、冷ややかな美しさを湛えた阿茶局であった。
「殿、いよいよ安土へ向かわねばなりませぬ。織田信長公からの招待……いや、これは『検分』にございます」
数正の声は、重苦しい。五郎が昨夜、暗闇の中で何をしていたかを察しながらも、あえて「家康」として接する非情さがそこにはあった。
「検分……。信長公は、何かを疑っておられるのか」
「あの方は、常にすべてを疑っておられる。殿が三方ヶ原を境に、あまりに鋭利な怪物へと変貌を遂げたことを。……確証はなくとも、あの方は『違和感』という火種を、じりじりと炙り出すのを楽しむ御仁にございます」
数正の言葉に、阿茶が静かに一歩前に出た。
「なればこそ、私が殿の『お気に入りの側室』として同行いたします。世間には『家康は女好きが高じ、外交の場にまで側室を連れ回す放蕩者』という噂を流しておきました。私が側にいれば、殿のふとした隙を、私の毒気で隠すことができましょう」
一切の感情を排したような、阿茶の事務的な声。それが逆に、彼女の「盾」としての覚悟を物語っていた。
「阿茶、お主にまで泥を被せるな」
「泥を被るのが、私の役目にございます。……信長公の鋭すぎる視線を逸らすには、私が『家康公の理性を狂わせる女』を演じ、殿を包み隠すのが最も効率がようございます。……安土では、どうぞ私を、手放せぬ玩具のように扱ってくださりませ」
阿茶は薄く微笑んだ。その瞳の奥には、五郎への情愛よりも、この「壮大な嘘」を完遂させようとする冷徹な意志がある。安土での饗応を終えた後、阿茶は酒井忠次と共に一足先に帰国し、五郎は独り、堺へと向かう手筈となった。
安土への道中、一行が休憩を取った際、数正は一人、街道から外れた茂みにいた。手元の台帳には、信長へ贈る献上品リストと、五郎が「家康」として振る舞うべき所作の備忘録がびっしりと書き込まれている。
「……ふぅ」
数正は大きくため息をつき、空を仰いだ。その表情には、五郎を歴史という地獄へ追い込んだ男の、隠しきれない疲労が滲んでいる。
「……腹が、減ったな」
ボソリと、誰に聞かせるでもなく呟く。数正は、その渋い顔をさらに歪ませ、腹のあたりをさすった。
「信長公という、底知れぬ怪物を欺き通す。……そんな大博打の最中に、腹の虫は容赦なく鳴くものだ。……安土へ行けば、毒見役が倒れるほどの贅を尽くした料理が出るだろうが。……私は、五郎殿がたまに作る、あの薬草臭い麦飯の方が、よほど腹に収まりが良い……」
数正は立ち上がり、再び「徳川の知将」の顔に戻って、五郎の待つ本陣へと歩き出した。その視線の先には、黄金の具足を身に纏い、一騎で馬を駆る「偽りの家康」の背中があった。




