【第二話:白檀の残り香 —— 捏造の世継ぎ、憤怒の忠臣】
お読みいただきありがとうございます。
今回はコメディ回です。
シリアスな展開に作者がついていけず完全に遊んでますが、徳川の歴史には大変重要(?)かもしれません…
天正九年、浜松城。
お愛の産後の肥立ちを案ずる御典医の診断を受けた夜の寝所。
五郎は、彼女の細い肩を抱き寄せ、絞り出すような声で誓いを立てていた。
「……お愛。もはや、これ以上お主を危険に晒すことは、断じてまかりならぬ。……この五郎、天に誓って、生涯お主一人を愛し抜く。……お主以外の肌を知ることは、これより万死に至るまで、断じて……断じてござらぬ!」
白檀の香りがしんしんと漂う寝所。五郎の目には、一点の曇りもなき純愛の炎が宿っていた。
お愛が「……殿、そこまで仰らずとも……」と困り顔で微笑んだ、その刹那である。
「——殿!! 吉報にございまする!!」
襖が、それこそ蝶番が悲鳴を上げるほどの勢いで撥ね飛んだ。
風巻のごとく乱入してきたのは、眉間に深い「業」の皺を刻んだ石川数正である。その手には、墨痕鮮やかな一通の「台帳」が握られていた。
「数正! 無礼であろう! 今、私はお愛と……」
「言い開きなど後回しに召されよ! 此度、信濃の某が娘との間に、めでたく姫君がお生まれになりましたぞ! 名は振姫といたしましょう。……さあ、直ちに『そうであったか、愛い奴よ』と、身に覚えのあるような顔をなされ!!」
五郎は、お愛を抱いたまま、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で絶句した。
「……身に覚えなど、爪の先ほどもござらぬ! 振姫だと!? 信濃の娘だと!? 誰だそれは! 私はその女の、面を拝んだことも、名を聞いたことも……ましてや手の一本も触れたことは断じてないわ!!」
「当たり前でございましょう! 先ほど、私が適当な娘を養女に仕立て、台帳を書き換えたのですからな!」
数正は、居丈高に言い放った。
「お前……! 私は今、お愛に『生涯一途を貫く』と誓ったばかりなのだぞ! それを、何が振姫だ! お前は、お愛に申し訳ないとは思わぬのか! 徳川の家老ともあろう者が、主君を不義理な絶倫男に仕立て上げおって!!」
五郎が、寝巻のまま立ち上がり、詰め寄る。
だが、数正の「プロデューサー」としての我慢も、ここで限界を超えた。数正は手に持った台帳を畳に叩きつけ、雷鳴のごとき大声を上げた。
「……ああ、そうですか! 結構な純愛にござるな! 麗しき夫婦愛にござるな!! ですがな、殿! 貴方がそのように『清廉潔白』を貫けば貫くほど、この数正が、どれほど必死に嘘の言い開きをひねり出し、帳尻の辻褄合わせに身を削らねばならぬか、お分かりかッ!!」
「数正、お前……」
「捏造がこれほど嫌だと仰るならば……ならば、殿!! いざ、自ら励まれよ!!」
「…………は?」
「これほど作り事の裏付けに苦労するのが嫌だと仰るならば、今すぐそこらの侍女でも町娘でも手当たり次第に手をつけ、本物の家康公らしく、実際に十人二十人と種を蒔いてご覧なされ!! ……ああ、無理でしょうな! 貴方はどうせ、この先もお愛様、お愛様と、白檀の香りに鼻をひくつかせて一生を終えるのでしょうからな! だったら、黙って私のこしらえた『嘘の子』の父親面をしていれば良いのです!!」
数正の、魂の咆哮。
あまりの剣幕に、お愛は目を丸くし、襖の陰で控えていた阿茶局は、もはや「あーあ……」と天を仰いでいた。
「……殿。殿が『一途な仏』であらせられる裏で、私は『嘘を吐く鬼』になるのでございます。……さあ、阿茶! 次の『隠し子』の準備をいたせ! 次は武田の遺臣を懐柔せねばならぬゆえ、武田の血を引く赤子をどこぞから……いや、手厚くお迎えして参るぞ!!」
「……はっ。万事、心得ましてございます(……やれやれ)」
数正は、嵐のごとく去っていった。
静まり返った寝所。五郎は、懐のお愛の香袋を握りしめ、呆然と、しかし深い敗北感とともに呟いた。
「……数正。あいつ……。絶対に、地獄の閻魔に舌を抜かれるぞ……」
「……ふふ、殿。ですが、あれも数正様なりの、殿への『忠義』にございましょう」
お愛の苦笑いに、五郎は「そんな忠義、私は受けとうない……」と肩を落とすしかなかった。
こうして、徳川家康という「絶倫な怪物」の虚像は、一人の生真面目な影武者と、一人のキレ気味な名プロデューサーによって、益々強固に固められていったのである。
【独白:影の繕い手 —— 奪いし月、還りし光】
「……ふぅ。腹が、減ったな。今宵の月は、あの頃のように不気味なほど静かだ。
かつて、私はこの手で、寺の静寂に守られていた五郎殿を無理やりこの泥土の世へと引きずり出した。仏に仕え、欲も知らずに生きてきた清らかな魂を、徳川という巨大な呪縛の中に閉じ込めたのは、他でもないこの私だ。
あの時、私はあの方の『過去』をすべて断ち切らねばならぬと考えた。影武者に未練は不要。ゆえに、あの方が家康公になる前から想いを寄せていた唯一の女子……お愛殿を、死んだことにして世から消した。 あの方には『お愛は始末した』と嘘を吐き、一方でその実、彼女を寺に匿い続けた。……それが、私がこの男に強いた最初の絶望であり、私が背負った最初の大きな嘘であった。
忘れもせぬ、あの督姫の夜。 織田を、信長を欺くために、私は五郎殿に地獄を命じた。
『女を抱け、種を残せ。それが偽物の家康が生き延びる道だ』
そう告げた時の五郎殿の、あの凍りついた瞳……。寺で育ち、誠を重んじるあの方にとって、あれは単なる契りではなく、己の魂を切り売りし、泥にまみれる儀式であった。 その心を砕いたのは、紛れもなく、この私だ。……あの方は、あの日から抜け殻のようになった。
見てはおれなかった。 あの方が、日に日に光を失い、家康という偽りの皮の中で死んでいくのを。 あの方を救えるのは、私が一度は殺した、あの月しかおらぬ。
私は己の非情さを捨て、匿っていたお愛殿を、あの方の前に戻した。かつての想い人。純潔なまま引き裂かれた二人を、ようやく引き合わせたのだ。側室という名の、唯一の真実として。
今、五郎殿はお愛殿という光の中に、ようやく一人の人間としての安らぎを見出しておられる。 長丸(秀忠)殿、福松(忠吉)殿。立て続けに二人の幼子を授かったあの方が、お愛殿への真心を守るために放ったあの『打ち止め』の宣言。
『もう、嘘はつかない。お愛以外の女子は、二度とこの肌に触れさせぬ』
その瞳に宿った強い光は、かつて私が強いた、あの督姫の夜への……そして私という男への、静かな、けれど決死の抵抗であったのだろう。
……ならば、あとは私の仕事だ。 世は徳川家康を、多くの子を成す強壮な将と見ている。ならば、その虚像を私が作り上げねばならぬ。 他所から赤子を連れてきては殿の子とし、系図を書き換え、すべ五郎殿の『不徳』として塗りつぶす。 かつては無理に子を作らせて五郎殿を傷つけた私が、今は子がいないことを隠すために、必死に嘘の壁を塗り固めている。
……おかしな話よ。 五郎殿の中にある『お愛殿への真心』という、たった一つの本物を守るために、徳川という巨大な嘘を歴史に刻み続けているのだから。
五郎殿、貴方のその一途、あの督姫の夜の罪滅ぼしとして、私が墓場まで守り通しましょう。 歴史に記される家康という男は、非情で絶倫な怪物。だが、私の知る五郎殿は、ただお愛殿を愛し抜く、清らかで不器用な一人の男。 ……その真実だけは、何があろうと誰にも触れさせぬ。
さて……独りごちは、より腹が減る。 明朝にはまた、どこぞの養女を『家康の娘』として嫁がせる手配をせねば。……やれやれ、この繕いもの、なかなか骨が折れる。」




