【第二部第一話:白檀の微風 —— ひとときの安らぎと、秘めたる誓い】
天正九年(一五八一年)、浜松。
遠州灘から吹きつける激しい海風も、浜松城の奥御殿に届く頃には、初夏の柔らかな陽光を孕んだ穏やかな微風へと変わっていた。
お愛の部屋に近い一角には、かつて五郎が泥にまみれて植えた薬草たちが、今やこの庭の主のように青々と力強く葉を広げている。丹精込めて育てられた当帰や芍薬が初夏の光を弾き、風が抜けるたび、白檀の香りに混じって微かな生薬の香りが漂っていた。
庭では、二歳になった長丸(秀忠)が、よちよちと覚束ない足取りで紋黄蝶を追いかけている。その傍らでは、お愛が、生後半年をとうに過ぎてずっしりと重みを増した福松(忠吉)を膝に抱き、慈しむように微笑んでいた。
五郎は、高天神城を落とし武田を追い詰めた戦の熱を帯びたまま、一人の男としてその光景を見つめていた。表向きは、織田信長からも一目を置かれる冷徹な将、徳川家康。だが、この白檀の香りがしんしんと漂う部屋に一歩足を踏み入れれば、彼は山寺の静寂を知る「五郎」に戻ることができた。
「……殿。あまり見つめられては、長丸が照れてしまいますわ」
お愛が顔を上げ、いたずらっぽく笑う。だが、その頬は以前よりも少し削げ、どこか透き通るような白さに染まっていた。二人の子を立て続けに産んだ代償は、彼女の細い身体を確実に蝕んでいた。
五郎は、彼女の隣に静かに腰を下ろし、その小さな肩をそっと抱き寄せた。
「……お愛。福松も、もうこんなに重くなったのだな。お主の身体、少し休ませねばならぬ」
「私は平気でございます。この子たちの寝顔を見ているだけで、力が湧いてくるのですから……」
お愛は気丈に微笑むが、その指先が微かに震えているのを、五郎は見逃さなかった。
この穏やかな昼下がりの直後、阿茶局を伴って現れた御典医が、五郎に非情な事実を告げることになる。
「……お愛様のお身体は、限界にございます。これ以上のお産は、その命を削り取るに等しい。……殿、もはや次は、断じてありませぬ」
御典医が見えなくなった途端、五郎は、お愛の手を力強く握りしめた。その手は驚くほど細く、震えていた。
「……そうか。ならば、もう十分だ」
五郎の声は、低く、迷いがなかった。
「長丸と福松、二人の世継ぎを授かったのだ。徳川の未来を繋ぐには、これで十分すぎるほどだ」
そこへ、阿茶が戻ってくる。
「阿茶、分かっているな。今後、お愛に無理をさせることは一切まかりならん」
阿茶は、五郎の瞳の奥にある「恐怖」を見た。天下人として世継ぎが少ないことを案じる主君の顔ではない。ただ、最愛の女性を失うことを何よりも恐れる、一人の男の顔だった。
「……承知いたしました。奥向きの差配、そして殿の『世評』については、この阿茶が万事、手配いたします」
阿茶は静かに一礼し、部屋を去った。彼女は、徳川家康という「器」を維持するためには、側室を増やし子を成し続けることが強さの証明になることを知っていた。だが、目の前の五郎は、そんな「歴史の要請」を真っ向から拒絶しようとしていた。
部屋に二人きりになると、五郎はお愛を抱き寄せ、その耳元で囁いた。
「……お愛、聞け。私はこれからも『家康』として、多くの側室を抱えるふりをするだろう。阿茶がそのための嘘を、幾重にも塗り固めてくれるはずだ。だが……」
五郎はお愛を抱き寄せ、その白檀の香りに深く顔を沈めた。 「形だけの褥をいくら並べようと、私が真に心を通わせ、そばに置く女はお前以外にいない」
「殿……。ですが、それでは家康公としての面目が立ちませぬ」
「面目など、知ったことか。『徳川家康』という名は、死んだ兄上への義理を果たすための器に過ぎぬ。だが、その器の中に唯一残された『五郎』という一人の男の魂は、生涯お前だけのものだ。……お前の命を削ってまで繋ぐ徳川の世など、私には塵ほどの価値もないのだ」
お愛の目から、大粒の涙がこぼれ、五郎の小袖を濡らした。
彼女は分かっていた。この男が、偽物の主君として生きる代償にどれほど過酷な孤独を背負っているかを。そして、自分への忠貞だけが、彼が「自分自身」を繋ぎ止めるための最後の一線であることを。
「……五郎様。貴方は、本当にお馬鹿な御方です……」
お愛は、五郎の胸に顔をうずめ、泣き笑いのような声を上げた。
外では、長丸が大きな声を上げ、福松がそれに応えるように小さな手を動かしている。
徳川の未来を担う二人の稚児と、互いの魂を寄せ合う偽りの主君と、その妻。
血塗られた歴史の幕間で、その一室だけは、この世で最も清らかな「愛」という名の真実が、静かに息づいていた。




