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『弟』〜家康は三方ヶ原で亡くなっていた。石川数正が仕掛けた徳川最大の虚構〜  作者: 滝丸
第一部:『影の覚醒編』

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【番外編:月の還る場所 —— 浜松城下、一刻の真実】

浜松城下、人目を忍ぶ静かな邸宅。

庭には早々と初夏の虫の音が低く響き、一点の曇りもない月光が濡れたように縁側を照らしている。

五郎は、まだ「家康」の衣装に馴染めぬ己の肩を落とし、奥の部屋から漏れる微かな灯りを見つめていた。


「……数正。やはり、私には無理だ。私はまだ、兄上の名を騙る偽物に過ぎぬ。お愛を……あの方を、この嘘にまみれた体で汚すわけにはいかないのだ」

背後に立つ石川数正は、微動だにせず、五郎の背中を見つめていた。その瞳には、かつて己がお愛を死んだことにして隠し、五郎を孤独に追いやったことへの、消えぬ悔恨が宿っている。


「……五郎殿。貴方はまだ、己を偽物だと思っておられるのか」

数正が重い一歩を踏み出し、五郎の隣に並ぶ。その眼差しは鋭く、けれど深い慈愛に満ちていた。

「……督姫の夜、貴方は徳川のために己の魂を削って地獄を歩まれた。兄公への誓いを守るため、泥を被り、今日まで一日たりとも欠かさず『家康』として苦悩してこられた。その血の滲むような葛藤こそが、今の徳川を支える、何物にも代えがたい本物の柱にございます。拙者が、この石川数正が、命に代えて保証いたしましょう。今の貴方は、誰が何と言おうと、立派な徳川家康公にございます」

数正は一度言葉を切り、さらに声を落として、五郎の魂に直接語りかけるように続けた。

「……なればこそ。明日の入城を前にしたこの一刻だけは。家康としてではなく、ただの『五郎』として、あの方に向き合ってくだされ。 それこそが、この地獄に貴方を引きずり出した、拙者のせめてもの償いにございます」

五郎の瞳が、大きく揺れた。

数正は深く、一度だけ頷くと、五郎に背を向けた。

「……拙者は門前で、月でも眺めております。 ……ゆきなされ、殿。あの方は、貴方様を待っておられる」



五郎は震える手で、奥の間への障子を開けた。

そこには、数正が闇に匿い、守り抜いてきた「月」……お愛が、静かに座していた。

「……五郎様。……いいえ、殿」

お愛が微笑む。その瞳には、五郎が恐れていた「偽物への蔑み」など微塵もなかった。

五郎は吸い寄せられるように彼女の前に膝をつき、その白く細い指先を、己の無骨な掌で包み込んだ。

「……お愛。……私は、お前を一度殺したも同然だ。数正が、私が家康であるために、お前を奪った……」

「……いいえ。私はあの日からずっと、貴方様が迎えに来てくださるのを信じておりました。器の名が何であれ、私の心にあるのは、あの日、別邸で出会ったお優しい貴方様だけ。……今宵は、お名前など、いりませぬ」

五郎はお愛の魂を吸い寄せるように、愛おしく、抱き寄せた。

白檀の香りと、お愛の柔らかな温もりが、五郎の中にあった「偽物の恐怖」を、雪解けのように溶かしていく。

五郎の指先が、お愛の着物の帯に触れた。ゆっくりと、けれど熱を帯びた手つきで、その結び目が解かれていく。露わになった彼女の肌は、窓から差し込む月光を吸って、陶器のように白く輝いている。それは、嘘にまみれた世にあって、唯一触れることのできる「真実」の光だった。

五郎は彼女の髪に顔を埋め、自分の中に渦巻く孤独と、数正に託された重圧を、すべてその温もりに委ねた。

二人の吐息が重なり、部屋の隅で灯っていた燭台の火が、運命の激流に怯えるように小さく爆ぜて消えた。

闇は、残酷な現実を覆い隠す唯一の味方となった。

五郎はお愛の肌に触れるたび、自分が「五郎」という一人の男であることを確かめた。それは言葉を超えた、魂と魂の対話。

月の光が襖に二人の影を一つの漆黒に変えていく。

五郎はお愛の中に、己という存在を深く、静かに刻み込んだ。

「家康」という重い仮面を脱ぎ捨て、ただの「五郎」として。お愛の流した一筋の涙を、彼は唇で拾い上げ、共に生きる誓いとした。



東の空が白み始めた頃。

五郎は、隣で穏やかに眠るお愛の寝顔を見つめ、静かに身を起こした。

彼は再び「徳川家康」の装束を纏い、刀を差す。

その顔つきからは、昨夜までの迷いは消え失せ、冷徹なまでの「覚悟」が宿っていた。

障子を開けると、門の前で数正が、朝靄の中に彫像のように立ち、静かに月が沈む西の空を眺めていた。

「……お目覚めにございますか、殿」

数正がゆっくりと振り返る。その瞳は、五郎が「守るべきもの」を得たことを、一目で見抜いていた。

「……ああ。数正、ゆくぞ。……城へ、西郷の局を迎える」

五郎の迷いのない声に、数正は深く、満足げに頭を下げた。

「……はっ。……お見事にございます、殿」

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