【第一部最終話 :安土の審判、神の産声】
天正十年、三月。
近江、安土城。
雲を突くようにそびえ立つ天主は、さながら地上の理を塗り替える魔王の牙城であった。
信康と瀬名の処断を終えた五郎は、石川数正を伴い、信長への拝謁のためにこの城を訪れていた。
広間へと続く長い廊下を歩く五郎の背中に、数正が低く、刺すような声で囁く。
「……殿。ここからは、一分の隙も許されませぬ。織田信長は、人の瞳の奥に潜む真実を喰らう男。……貴方様が『徳川家康』として、その魂を完全に殺しきれているか、試される場にございます」
五郎は答えなかった。ただ、深く被った笠の下で、灰色の瞳が冷たく前を見据えていた。
広間の奥、一段高い座に織田信長はいた。
「……徳川殿。面を上げよ」
低く、通る声。五郎が顔を上げると、そこには天下の主の、射抜くような眼光があった。
かつての兄・家康なら、この視線に晒されれば、僅かに肩を震わせ、卑屈なまでの愛想笑いを浮かべたはずだ。だが、今の五郎は違った。瞬き一つせず、深淵のような無表情で信長を見返した。
信長は、しばらく無言で五郎を凝視していた。その沈黙は、広間に居並ぶ織田の重臣たちが息を呑むほどに長く、重い。
やがて、信長が不敵に口角を上げた。
「……三方ヶ原を越えてからというもの、貴様の噂は安土まで届いておったぞ。家臣を恐怖で縛り、敵を調略で自滅させ、ついには己の妻子をも躊躇なく切り捨てた。……冷酷なる『怪物』、家康とな」
信長がゆっくりと立ち上がり、五郎の目の前まで歩み寄る。数正の指先が、畳の上で微かに震えた。信長は五郎の目と鼻の先で足を止め、その瞳の奥を覗き込むように声を落とした。
「……家康。貴様、本物をどこへやった」
その問いは、五郎の心臓を直接掴み取るかのような鋭さであった。五郎の脳裏に、泥の中で果てた兄の笑顔が、お愛と過ごした別邸の白檀の香りが、一瞬だけ過る。だが、五郎はそのすべてを、心の底の氷穴へと突き落とした。
「……信長殿。三方ヶ原の泥の中で、かつての徳川家康は死にました」
五郎の声は、一点の揺らぎもなかった。
「あの日、私は弱さを捨てた。……ここにいるのは、徳川という家を繋ぐための『器』。その中に、人の心などという脆いものは一滴も残っておりませぬ」
信長の瞳が、一瞬だけ驚きに揺れ、すぐさま悦楽の色に染まった。
信長は知っている。目の前の男が、自分の知るあの臆病な「竹千代」ではないことを。だが、同時に信長は悟った。この偽物、この「怪物」こそが、自分の創り上げようとしている「戦なき世」という地獄を共にするに相応しい相棒であることを。
「……く、くくく……ははははは!」
信長の大笑が、広間に響き渡る。
「面白い! 家康よ、貴様が誰であるかなど、もはや些事よ。……今の貴様が纏う、その死臭と孤独。それこそが、天下の主が背負うべき本物の『業』だ。……今の貴様なら、俺の隣に立つ資格がある」
信長は五郎の肩を強く叩き、耳元で囁いた。
「……偽物が真実を飲み込んだ時、それは『神』となる。……徳川家康という虚像を、墓場まで演じきってみせよ。それこそが、俺が貴様に下す唯一の命だ」
五郎は深く、深く平伏した。
その掌には、隠し持った『元康の紙』が、五郎の指の圧力で無惨にひしゃげていた。
信長という魔王に「偽物」と認められ、同時に「家康」として生きることを許された瞬間。
五郎は、人としての最期の欠片を安土の床に置き去りにし、ただの「歴史の装置」として立ち上がった。
この時、無惨にひしゃげた『元康』の紙は、後に五郎が肌身離さず持つ文箱の底に、ひっそりと潜まされることになる。数十年後、彼が「神」としてその生涯を閉じるその瞬間まで、彼が「五郎」であった唯一の証として、誰の目に触れることもなく守られ続けるのである。
第一部、完。




