【第二十二話:影鋼の盾、泥の浄土】
天正七年、晩秋。
信康の初七日が過ぎた頃、浜松城を包んでいたのは、血の匂いを孕んだ不気味なほどの静寂であった。
五郎は、あの雨の夜に一度だけ露わにした「五郎」の心を、再び「徳川家康」という漆黒の鎧の奥へと押し込めた。鏡に向かって自らの表情を厳しく作り直すその指先は、わずかに震えている。
そこへ、数正が一人の女を連れて現れた。
「……阿茶と申します。神谷長門守の妻にございました」
阿茶の佇まいは、抜き身の刀のような鋭い理知を湛えていた。数正は、お愛という「光」だけでは、妻子を死なせた直後の五郎を、信長という魔王の毒から守りきれないと判断したのだ。彼女を「影の実務家」として、この絶望のタイミングで送り込んだのである。
「神谷の……」
五郎は絶句した。神谷は、偽物の主君である自分を最後まで信じ、守り抜いて討死した忠臣だ。数正が、冷徹な響きを含んだ声で五郎に囁く。
「殿。瀬名様と信康様は、もはやおられませぬ。これから殿が歩まれるのは、人の道に非ず。最愛のお愛様を、これ以上政治の泥沼に引きずり込むわけにはまいりませぬ」
数正の瞳には、弱さを心の深淵に沈め、ただ職責だけを全うしようとする非情な覚悟が張り付いていた。
「なれば、殿の傍らで共に返り血を浴び、政の裏側を司る『影の女』が必要にございます。阿茶は女としての情ではなく、家臣としての知略を貴方様に捧げると誓っております。……寺育ちの貴方様には、その汚れ役を引き受ける『盾』こそが必要なのです」
五郎は阿茶を凝視した。彼女の瞳には媚びも好奇心もなく、ただ「この男の歩む修羅道を、実務として引き受ける」という冷徹な覚悟だけがあった。
「……阿茶と言ったか。私は己の保身のために、妻子を見殺しにした怪物だ。お前は、そんな男の側にいて、耐えられるのか」
阿茶はゆっくりと顔を上げた。唇に、微かな、だが強靭な笑みが浮かぶ。
「……それが徳川という器を守るための道であるならば、私は喜んでその片棒を担ぎましょう。殿が怪物であれば、私はその怪物の爪を研ぎ、牙を隠す鞘となります。……白檀の香りは、お愛様に。私は、貴方様が流す血の匂いを消すための、強い香を焚き続けましょう」
阿茶が奥へ入って数日後。深夜、彼女は五郎の密書を携え、人目を忍んで渡り廊下を歩いていた。そこで、一人の女と行き違う。お愛であった。
阿茶はわざと険のある視線を向け、慇懃無礼に頭を下げた。
「お愛様。……殿を夜通しお留めしてしまい、申し訳ございませぬ。私共のような実務を司る身には、殿とお話しせねばならぬ『裏事』が山ほどございますので」
それは、お愛を五郎の「罪」から遠ざけるための、阿茶なりの突き放しであった。しかし、お愛は怯むことも、嫉妬の火を灯すこともなかった。ただ、阿茶の強張った肩と、その鋭い瞳の奥に潜む「痛み」を、慈しむように見つめた。
「……阿茶様。そのお役目、どれほどお心が削れることでしょう」
「……何を仰います。私はただの、道具に過ぎませぬ」
「いいえ。貴女様が『毒』を引き受けてくださり、感謝しております。貴女様がいるから、殿は今日、わずかでも眠りにつくことができた」
お愛は一歩近づき、阿茶の冷たい手に、自らの温かな手を重ねた。乳飲み子である長丸(秀忠)を抱くお愛の体温が、阿茶の指先に伝わる。
「貴女様は、殿の『盾』になろうとしておられる。……ならば私は、貴女様の『盾』になりたい。阿茶様、どうか、独りで地獄へ行こうとなさらないで。私たち二人で、あの方を支えましょう。公は貴女が、私は私が」
阿茶は、お愛の琥珀のように透き通った瞳を見つめ、初めて言葉を失った。自分は五郎を「怪物」に仕立てる覚悟をしたが、この女は、その怪物を支える自分の「痛み」すらも抱きしめようとしているのだ。
「……お愛様。貴女様は、あまりに……」
阿茶はそれ以上言えず、視線を逸らした。だが、繋がれた手の温もりだけは、頑なに閉ざしていた彼女の心に、柔らかな光を落としていた。
ある日の夕暮れ。阿茶局は、殿へ火急の相談があり、お愛の部屋の庭へと回った。そこで彼女は、息を呑んで足を止める。
垣根の陰、お愛の部屋のすぐ外にある小さな庭で、徳川家康ともあろう男が、無造作に袖を捲り上げ、泥にまみれて地面に跪いていた。
五郎は、鋭い戦の眼光も、主君としての威圧感も、どこかへ置き忘れてきたかのようだった。彼は一株の草を愛おしそうに土へ下ろし、その根を優しく撫でている。その口元には、かつて数正さえも見たことのないような、穏やかで清らかな微笑が浮かんでいた。
「……殿?」
阿茶の声に、五郎がゆっくりと顔を上げた。その瞬間、阿茶は背筋に冷たいものが走るのを覚えた。
夕闇の中、五郎の顔は半分が影に沈み、半分が残り火のような夕陽に照らされていた。光に晒された側の瞳には、戦国大名としての野心も「徳川家康」としての仮面もなかった。そこにあったのは、山寺の静寂を知り、命の芽吹きをただ慈しむ、名もなき「五郎」としての純粋な素顔であった。
(……このお方は、誰だ)
阿茶は激しい眩暈に襲われた。彼女がこれまで見てきた家康は、三方ヶ原を越えて以来、どこか「空虚な怪物」へと変貌した男であった。だが、目の前にいるのは怪物ではない。あまりに澄んだ、あまりに無防備な「僧侶」の魂であった。
「阿茶か」
五郎の声は、低く、しかし驚くほど澄んでいた。
「……これは、当帰という。血を巡らせ、身体の冷えを払う。お愛の……いや、皆の身体を労わる薬になる。土に触れていると、不思議と心が凪ぐのだ。ここが戦場であることを忘れられる」
その言葉に含まれた、剥き出しの慈悲。阿茶はその瞬間、この「素顔」こそが、織田信長という魔王の前では、一瞬で徳川を滅ぼす「死の綻び」になると確信した。
阿茶は即座に、周囲で不審そうに遠巻きにしていた侍女たちを鋭い眼光で射すくめた。彼女の頭の中では、すでにこの「綻び」を縫い合わせるための筋書きが完成していた。
「皆、聞きなさい!」
阿茶の声が、夕暮れの庭に響き渡る。彼女は泥に汚れた五郎の手をあえて高らかに掲げ、艶やかな笑みを浮かべた。
「我が殿は近頃、京より取り寄せた極めて希少な『香草』を自ら育てるという、これまでにない雅な趣味をお持ちになったのですわ。土の配合から自ら手掛けるというこの熱理、まさに凡百の武将には理解できぬ、高貴なる隠者の遊びにございます!」
五郎が驚いたように目を瞬かせる。その隙に、阿茶は五郎の耳元で、拒絶を許さぬ刃のような声で囁いた。
「(……殿、そのまま。これは『薬作り』ではなく、殿の権威を示す『雅な遊び』なのです。その泥を、徳川の威厳という絵の具にお変えなさいませ)」
阿茶は五郎の頬についた泥を、自らの指先で愛おしそうに拭った。その目は笑っていたが、心は戦慄していた。彼女はまだ知らない。お愛にだけは赦しているその「素顔」が、本物の家康とは決して交わらぬ別人のものであることを。
五郎は、阿茶によって「雅な香草」と名付けられた当帰の芽を見つめ、そっと胸の内で、亡き兄と、自分を「五郎」に戻してくれるお愛へ祈りを捧げた。




