【スペシャル番外編:白檀の残香 —— 令和、日光の森にて】
訪問いただきありがとうございます。
本日は家康公の命日ですのでスペシャル番外編として少しだけ書かせていただきました。
お読みいただければ幸いです。
令和のある年、四月十七日。徳川家康公の命日。
栃木県、日光東照宮。
本殿の華やかな喧騒を離れ、二百段余りの石段を上がった最奥。老杉の静寂に包まれ、家康公の遺骸が眠るとされる「奥社宝塔」の前に、三人の男女が立っていた。
彼らに面識はない。
だが、その手には共通して、公式の法要では使われない「白檀」の香が握られていた。
一人は、眼鏡の奥に鋭い知性を光らせた、初老の紳士。
一人は、スポーツウェアの上からでもわかる、鋼のような体躯をした無骨な男。
一人は、どこか気品を漂わせ、凛とした佇まいで塔を見上げる若き女性。
三人がそれぞれ白檀に火を灯すと、辺りは一瞬にして、甘く、どこか懐かしい香りに包まれた。
「……不思議ですね」
女性が、誰に言うでもなく呟いた。
「我が家には、四月十七日には必ず白檀を持ってここへ来るように、とだけ伝えられています。理由は、誰も知らない。ただ、それが先祖代々の『契約』なのだと」
体育会系の男が、不器用な手つきで線香を供え、深く頷く。
「俺の家もだ。理由は聞くな、ただ白檀の香りを絶やすな、と。歴史なんて柄じゃないが、この香りを嗅ぐと、なぜか胸の奥が熱くなる。……ああ、守り抜いたんだな、っていう、妙な実感が湧くんだ」
理知的な老人は、煙の向こうの宝塔を見つめ、静かに微笑んだ。
「私の家系に伝わる記録にも、妙なことが書かれていましてね。……『歴史に書かれし神を拝むな。その裏にいた、名を捨てし男に香を届けよ』と。算盤を弾くのをやめた男が、最後に認めたのが、この白檀の香りだったのかもしれません」
今の彼らには、知る由もない。
二百段下の公式な歴史には「徳川家康」の偉業が刻まれているが、この二百段上の静寂の中には、かつて地獄を歩み、白檀の香袋を握りしめて「嘘」を真実に変えた、一人の『弟』が眠っていることを。
そして、その嘘を守るために、己の誇りを捨て、敵の心をも魅了し、歴史そのものを騙し抜いた男たちの執念が、四百年の時を超えてこの三人に受け継がれていることを。
石川数正、本多正信……表の歴史では改易され、途絶えたはずの者たちの血脈が、なぜ今、ここで白檀を焚いているのか。その真相を語る者は、もうどこにもいない。
だが、四百年後のこの日。
日光の空に昇る白檀の煙は、彼が煎じ続けた「泰平」という名の薬が、間違いなくこの国を癒したのだと、静かに告げていた。
三人が立ち去った後。
無人の奥社には、かすかに白檀の香りが漂い続けている。
それは、かつて駿府の寝所で、一人の女性が「五郎様」と呼んだ、あの日の残り香のようでもあった。




