【第二十一話:叔父と甥】
天正七年九月。遠江、二俣城。
瀬名の処断から半月。徳川の未来を担うはずであった嫡男・信康は、冷たい城壁に囲まれた一室で、静かにその時を待っていた。
部屋の戸が音もなく開く。
入ってきたのは、黄金色の具足を脱ぎ捨て、漆黒の装束に身を包んだ「家康」であった。
「……父上。わざわざ死にゆく者の顔を見に来られたのですか」
信康の声は、驚くほど透き通っていた。五郎は答えず、信康の前にどっしりと腰を下ろした。その手には、自刃のための短刀が握られている。
「……信康。恨んでいるか。私を、織田に媚びを売るために息子を殺す、冷酷な男だと」
「……恨んでおりました。母上を捨て、私を突き放した貴方を。ですが……」
信康はふっと笑い、父の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「……二俣城へ移されてから、ずっと考えておりました。父上は、いつからあんなに悲しい目をするようになったのかと。三方ヶ原から戻られた夜、貴方の背中に触れた時、私は言いようのない『違和感』を覚えた」
五郎の喉が、微かに鳴った。
「私の知る父上は、もっと手が大きく、泥の匂いがした。……ですが、今の貴方の手は、震えを隠すために常に硬く握られ、その瞳には、自分の人生を無理やり殺した者の『空虚』が宿っている。……父上、貴方は一体、誰なのですか」
五郎は、懐から血の滲んだ一通の紙を取り出した。兄・家康が遺した、『元康』の名が記されたあの紙だ。
「……私は、家康ではない」
五郎の声は、地を這うように低かった。
「私は、兄上の影だ。……不義の子として寺に隠され、兄上の身代わりとして地獄を歩むことになった、ただの『弟』だ」
信康の瞳が、大きく見開かれた。すべてが繋がったのだ。
なぜ父が豹変したのか。なぜ、あんなにも自分を遠ざけ、怪物にならねばならなかったのか。
「……そう、でしたか。……やはり、そうでしたか」
信康は、畳に深く頭を下げた。その肩は、激しく震えていた。
「叔父上……。貴方は、私の父になろうとしてくれたのですね。父が守りたかったこの徳川を、自分の魂を削ってまで、繋ぎ止めてくれようとしていたのですね」
「信康……。すまない。……私は、お前を救えなかった。兄上の血を、私の手で絶やそうとしている。……私は、死んでも死にきれぬ大罪人だ」
五郎の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。怪物の仮面が剥がれ落ち、そこには一人の、ただただ不器用な男がいた。
信康はゆっくりと顔を上げ、五郎の手を両手で包み込んだ。その手は、冷え切った五郎の手を温めるように、力強く握られていた。
「……泣かないでください、叔父上。貴方は、立派に私の父でした。長篠で見せたあの背中も、私を叱りつけたあの冷たい声も、すべては徳川を生き残らせるための、貴方の命懸けの『愛』だった。……私は今、それを知ることができて、誇らしい」
信康は短刀を手に取り、自らの腹へと当てた。
「……この秘密は、私が冥土へ持っていきます。貴方は、そのまま『徳川家康』として生きてください。そして、いつかこの乱世を終わらせ、父上や母上、そして貴方が愛した人たちが、笑って暮らせる世を作ってください」
「信康……ッ!!」
「……あちらの世界で、本物の父上に伝えておきます。『俺の叔父上は、世界で一番強い、最高の家康だった』と」
一閃。
信康の身体が、ゆっくりと崩れ落ちた。
五郎は、叫ぶこともできず、ただその亡骸を抱きしめた。
影武者として生き、家族を殺し、すべてを失った。だが、この死にゆく少年の許しだけが、五郎の凍てついた心を、わずかに解かしていた。
五郎は、返り血を浴びたまま、門の前に立つ数正と忠次の前に現れた。
その瞳はすでに、人間・五郎のものではなかった。
「……数正。忠次。信康は、見事に徳川の嫡男として果てた。……これより、我らに敵はない。織田も、武田も、私を阻む者はすべて踏み越えていく」
五郎は、前だけを見て歩き出した。背後で、二人の重臣が、かつてないほど深く頭を垂れる。
浜松城へと戻った夜。
五郎は、誰の立ち入りも許さず、暗い奥の間に独り座り込んでいた。その手には、ひしゃげ、血の跡が乾いた『元康』の紙が握られている。
空虚感に耐えきれず、五郎は激しい豪雨が叩きつける庭へと這い出した。泥濘の中に膝を突き、天を仰ぐ五郎の元へ、お愛が駆け寄ってきた。
「殿……! このようなところで何を……お体が冷えてしまいます!」
「寄るな! 私は、妻子を殺した怪物だ! この手は、もう仏に合わせることもできぬほど汚れている! お前のような清らかな者が、触れていい体ではないのだ!」
だが、お愛は五郎の泥にまみれた右手を、躊躇なく両手で包み込んだ。
「……殿。この手は、徳川の民を守るために、己の心を殺した手です。……誰よりも、臆病で、お優しい……五郎様の手です」
五郎の心臓が、跳ねた。
「……今、なんと呼んだ」
「五郎様。……器の名が何であれ、私の魂が慕っているのは、目の前にいる、この一人の男にございます」
お愛は、濡れた五郎の頬を、自分の頬に寄せた。
「たとえ、この世のすべてが貴方様を『家康』という嘘で塗り固めても……。私だけは、貴方様の中にいる『五郎様』の味方でございます」
激しい雨音の中、五郎はお愛の肩に顔を埋め、初めて声を上げて泣いた。
その様子を、数正は門前で見守っていた。霞んで見えない月を仰ぐその目から、一筋の涙が零れ落ちる。
「……御意にございます。たとえこの身が裂けようとも、徳川の『光』は死なせませぬ」
数正は、自らの忠義を、さらに深い修羅の道へと沈めていった。




