【第ニ十話:絶唱と刃】
天正七年、八月。遠江国、佐鳴湖の畔。
湿り気を帯びた夜風が、生い茂る草木を不気味に揺らしていた。
五郎は、ただ独り、湖畔に立っていた。
手には、兄・家康が遺した一振りの刀。かつて「お前に相応しい主になれ」と託されたその刃が、今は鈍い銀色の光を放ち、獲物を待つ獣のように静まり返っている。
背後から、荒い息遣いと共に数人の足音が近づいてきた。
引き立てられてきたのは、瀬名であった。
彼女の着物は泥に汚れ、乱れた髪がその白い頬にかかっている。だが、その瞳に宿る誇り高い光だけは、少しも衰えてはいなかった。
「……ここまで連れてきて、何をするおつもりですか。……偽物の家康殿」
瀬名の声は、驚くほど澄んでいた。
五郎は答えず、ゆっくりと彼女に向き直った。
数正や忠次ではない。他の誰でもない。この『嘘』を完遂するために、そして兄の妻への最後の手向けとして、五郎は自ら手を下すことを選んだのだ。
「……瀬名。すべては、徳川を守るためだ」
「徳川? ……笑わせないで。貴方が守りたいのは、家康様の名を騙って手に入れた、その虚しい地位だけでしょう」
瀬名は五郎の目の前で膝をつき、首を差し出した。
その潔い姿は、かつて今川の至宝と呼ばれた気高き姫そのものであった。
「殺すがいいわ。……私は、貴方のような怪物に支配されるこの世に、未練などない。……家康様のいないこの世界は、私にとって地獄と同じですもの」
五郎は、刀を抜いた。
鯉口を切る音が、夜の静寂に鋭く響く。
腕が、震えていた。
怪物の仮面の下で、五郎の心は悲鳴を上げていた。
(……兄上。私は今、貴方の最愛の人を殺そうとしています。……貴方の守りたかった家族を、この手で壊そうとしています)
五郎は、瀬名の背後に立った。
彼女の項は、月明かりの下で白く、儚く輝いている。
七年間、自分と兄を隠し、恨み、孤独に耐えてきた女性。
彼女が武田に奔ったのは、裏切りではなく、失われた「本物の愛」を取り戻そうとした、あまりに切実な叫びだったのだ。
「……瀬名。すまなかった。……本当に、すまなかった」
五郎の声が、涙で微かに掠れた。
「……え?」
瀬名が、驚いたように肩を揺らした。
冷酷な怪物だと思っていた男から漏れた、あまりに人間臭い、震える声。
それは、彼女がかつて知っていた、若き日の夫の優しさに、どこか似ていた。
だが、五郎は彼女が振り返るのを許さなかった。
一度でもその瞳を見てしまえば、刀を振るうことはできない。
「……さらばだ」
一閃。
夜気を切り裂く鋭い音が響き、瀬名の身体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
血の匂いが、夜風に乗って一気に広がる。
五郎は刀を投げ捨て、そのまま地面に這いつくばった。
こみ上げる慟哭を抑えることができず、拳で土を叩き、子供のように声を上げて泣いた。
(兄上……。瀬名を、瀬名をお連れしました……!)
五郎は、血に濡れた己の両手を見つめ、祈った。
自分は、血塗られた影としてこの地獄に残る。
だから、せめて――。
(あちらの世界では……二人、仲良くしてやってください。……今度こそ、影も嘘もない場所で、ただの夫婦として……笑い合って、暮らしてやってください……!)
兄・家康と、その妻・瀬名。
二人の間に割って入った「五郎」という不純物が消えたあとの世界で、二人が再び結ばれることを。
それが、兄の人生を盗んだ五郎にできる、唯一の贖罪であった。
湖畔の草むらから、石川数正が音もなく姿を現した。
五郎の背中を見つめる彼の瞳には、深い悲しみと、冷徹なまでの決意が混在している。
「……殿。……終わりましたな」
「……ああ。終わったよ、数正。……次は、信康だ」
五郎は立ち上がった。
涙を拭ったその顔には、再び「怪物・家康」の仮面が張り付いていた。
だが、その瞳の奥には、二度と消えることのない深い傷跡が刻まれている。
瀬名の遺体に、自らの羽織をそっとかけ、五郎は一度も振り返らずに歩き出した。
夜明けが近い。
しかし、五郎が歩む道に、光が差し込むことは二度となかった。




