【第十九話:魔王の問い、家臣の震え】
天正七年、夏。安土城。
雲を突くような絢爛豪華な天主を仰ぎ見ながら、酒井忠次は冷や汗が止まらなかった。
広間に通された忠次の前に座るのは、天下の主・織田信長。
その膝元には、娘・五徳から届いた例の「十二箇条の書状」が、無造作に置かれている。
「……徳川殿の筆頭家老、酒井左衛門尉(忠次)か。久しいな」
信長の声は、驚くほど静かだった。だが、その瞳の奥には、獲物を逃さぬ鷹のような鋭い光が宿っている。
「はっ。本日は、我が主・家康の言上を携え、罷り越しました」
「……言上、だと?」
信長は、鼻で笑って書状を指した。
「五徳からの文によれば、岡崎の信康と築山(瀬名)が武田と通じ、謀反を企てているという。……家康殿は、三方ヶ原を越えてから随分と『怪物』になられたようだが、身内の綱一つ引けぬほどに耄碌したか」
忠次は、畳に額をこすりつけた。
「……滅相もございませぬ。すべては、若気の至りと女の浅知恵。殿は、決して織田家への忠節を忘れてはおりませぬ」
「左衛門。俺が聞きたいのは、そんな釈明ではない」
信長が身を乗り出す。その圧倒的な圧力を前に、忠次の背筋に氷を押し当てられたような戦慄が走った。
「長篠での家康を見て、俺は確信した。あの男は、かつての家康ではない。……魂が入れ替わったかのように、冷徹で、底知れぬ闇を纏っている。……その男が、なぜ今になって家族の裏切りを放置している?」
「……。それは……」
「信康を生かしておけば、いずれ武田の盾となり、織田を背後から撃つ毒となろう。……もし家康殿が、本物の『徳川家康』であるならば、この程度の毒、自ら断ち切ってみせよ」
信長は、突き放すように言い放った。
「……信康を殺せ。築山を殺せ。……さもなくば、徳川そのものを、この安土の露と消すまでだ」
忠次は、言葉を失った。
これまでの数々の交渉でも、信長がこれほどまでに容赦ない「答え」を求めてきたことはなかった。
これは、単なる裏切りへの処断ではない。信長は、五郎が本物の家康かどうかを、その「血」で試そうとしているのだ。
(……ここで信康様を庇えば、徳川は終わる。五郎殿も死ぬ。お愛殿も……)
忠次の脳裏に、浜松でようやく人間らしさを取り戻し始めた主君の顔が浮かんだ。
だが、家臣としての忠義は、非情な決断を促す。
「……。信長公、承知いたしました。……若君と築山様のこと、徳川の手で、必ずや始末をつけさせましょう」
忠次の声は、自分自身でも驚くほど乾いていた。
その答えを聞いた信長は、満足げに、しかしどこか不気味な笑みを浮かべた。
「……よかろう。左衛門、お前のその判断、徳川の『怪物』によろしく伝えておけ。……家族を殺してこそ、真の覇者よ、とな」
安土から戻った忠次を待っていたのは、五郎、数正、そしてお愛の三人だった。
忠次の顔を見た瞬間、五郎はすべてを察した。
「……信長殿は何と。……助けては、くれぬのか」
「……申し訳ございませぬ、殿」
忠次は、そのまま泣き崩れた。
「信長公は……二人の首を求めておられます。さもなくば、徳川を滅ぼすと」
部屋に、絶望的な沈黙が満ちた。
お愛は五郎の腕を強く掴み、必死に涙を堪えている。
数正は、ただ一人、部屋の隅で暗い瞳を見開いていた。
「……そうか。信長は、私に『本物の家康』になれと言っているのだな。……兄上の家族を、この手で殺せと」
五郎の声には、怒りも悲しみもなかった。
あるのは、すべてを悟った者の、空虚な諦念だけだった。
「……数正。……誰が、やる」
五郎の問いに、数正はゆっくりと立ち上がった。
「……。私に、お命じください。……殿を人殺しにはさせませぬ。……汚れ仕事はすべて、この石川数正が引き受けましょう」
数正は、かつてお愛を殺した(ふりをした)時と同じ、あの「徳川の鬼」の顔に戻っていた。
五郎は懐の匂い袋を、そして兄の遺した『元康』の紙を、指が白くなるほどに握りしめた。
家康としての最大の悲劇が。
天正七年の雨の中に、静かに溶け込もうとしていた。




