【第十八話:産声と、重なる影】
天正七年、四月。浜松城。
城内に響き渡る赤子の産声は、徳川に新しい光をもたらした。お愛が産んだ男児、長丸(後の秀忠)である。
家臣たちは「神君の血が繋がった」と歓喜に沸く。五郎は、産後のお愛と赤子のもとへ、吸い寄せられるように足を運んだ。
お愛の腕に抱かれた小さな命。それは紛れもなく、五郎とお愛の魂の結びつきの証であった。
(……兄上の、お子か)
五郎は、震える手でその頬に触れた。
五郎はもちろんこの子の「父」である。だが、五郎の心の内側では、この子は愛おしい「甥」であり、自分が奪ってしまった兄の人生の結晶であった。
この子を「我が子」として抱くたび、五郎は自分が兄の場所を盗んでいる大罪人のような、耐え難い孤独に苛まれる。
「五郎様。この子は、貴方様が守るべき『徳川の未来』にございます。……どうか、この子の父として、笑ってくださいませ」
お愛の言葉は優しい。だが、その優しさこそが、五郎に「本物の家康」であり続けることを強いる、最も残酷な楔であった。
その頃、岡崎城の瀬名は、浜松からの報せを冷え切った自室で聞いていた。
「……産まれたのね。あの男と、あの女の間に」
瀬名の瞳には、祝福の色など微塵もない。彼女にとって、長丸の誕生は、自分と息子・信康の居場所が徳川から完全に消え去るという終わりの宣告、そして「本物の家康」という存在がこの世から完全に消し去られるための、冷酷な弔鐘に過ぎなかった。
(だったら、私はこの男を道連れにして、本物の家康様のところへ行くまでだわ)
武田の忍びから手渡された、冷たい血判状。それが今、彼女にとっての唯一の希望となった。
「……ようやく、支度が整いましたわ、家康様」
春の陽だまりの中、瀬名が呟いたその言葉だけが、凍てつく刃のように静寂を裂いた。
それから数ヶ月。
瀬名の孤独と殉教の決意は、ついに越えてはならぬ一線を越えさせた。
深夜、浜松城。五郎の前に、服部半蔵が音もなく現れた。
「殿……。岡崎より、不穏な品を回収いたしました」
半蔵が差し出したのは、泥と血に汚れた一通の文。武田勝頼との内通を誓う、瀬名の血判状であった。
五郎は目の前が暗転するのを感じた。
「……瀬名。これほどまでに、私(家康)を追い詰めたかったのか」
「それだけではございませぬ」
半蔵の声が、死神の宣告のように低く響く。
「信康様も……この事を知りながら、母上を止められなかったご様子。……殿、今すぐ岡崎へ向かい、内々に処理せねばなりません」
五郎はすぐさま立ち上がった。
「……数正と忠次を呼べ。内密に相談する。信長公に知られる前に、瀬名を隠居させ、信康を謹慎させれば……まだ、間に合うはずだ」
だが、そこへ部屋に飛び込んできた石川数正の顔は、かつてないほど蒼白であった。
「……殿、もはや手遅れにございます!」
「数正……何を言う。まだ信長公には……」
「……五徳様が、すでに動かれました! 父君・信長公へ向けて、岡崎の惨状を綴った十二箇条の文を……今朝方、密かに出発させたとの由。……今頃はもう、安土への道を抜けておりましょう!」
五郎は床に崩れ落ちた。
五徳。信長の娘であり、信康の妻。
姑である瀬名との不和、そして冷淡な夫への不満。彼女が信長に宛てたその文には、瀬名と武田の内通が、誇張と共に克明に記されていた。
(……終わった)
五郎の脳裏に、安土の魔王の冷笑が浮かぶ。
身内の綻びを、信長が見逃すはずがない。それは徳川家全体を飲み込む、紅蓮の炎となって迫っていた。
数日後、安土城からの使者が浜松に到着した。
「……織田信長公よりの沙汰である。酒井忠次。即座に安土へ参じ、事の次第を弁明せよ」
五郎は、立ち去る忠次の背中を、ただ茫然と見送るしかなかった。
自分が守ろうとした「家族」という名の仮面が、今、最悪の形で剥がされようとしていたのである。




