【第十七話:偽りの許し、冷えた視線】
天正六年(一五七八年)、春。岡崎城の一室。
五郎は、西郷と名を変えたお愛を伴い、正室・瀬名の前にいた。
側室に迎えるための形式上の挨拶。だが、そこに流れるのは、儀礼という名の刃を突きつけ合うような、凍てつく沈黙であった。
「……三河の寺で信心深く暮らしていた女である。瀬名、どうか側室として認めてほしい」
五郎の掠れた声に、瀬名は手に持った扇を弄びながら、口元に薄い笑みを浮かべた。その瞳は、お愛を、そして傍らに控える数正を、泥でも見るかのように冷たく射抜いている。
お愛は数正の指示通り、かつて別邸にいた頃とは装いも化粧も変えていた。しかし、彼女の身から立ち上る穏やかで清らかな空気までは隠しきれない。
(……ああ、そうか。この男は変わったのではない。ただ、また新しい女に骨抜きにされただけなのだわ)
瀬名の胸中に、どす黒い軽蔑が渦巻く。
長篠の戦で見せたあの冷酷な「怪物」の影は、今のお愛を慈しむ五郎からは感じられなかった。瀬名や信康にとって、その変化は「主君としての器が欠け、女に現を抜かしている無能な男」の姿にしか映らない。
ふと、瀬名の視線が五郎の「手」で止まった。
膝に置かれたその手は、家康の癖通り、指先で小さく拍子を取っている。
(……?)
瀬名の脳裏に、駿府での若き日の記憶が、稲妻のようにかすめた。あの男の指は、もっと短く、節くれ立っていたはずだ。目の前にある手の、この、わずかにしなやかで力強い骨格は何だ。
「殿……」
思わず呼びかけようとして、瀬名は言葉を飲み込んだ。
馬鹿馬鹿しい。そんなはずはない。目の前にいるのは、誰がどう見ても、憎き夫・家康その人なのだから。
「……よろしいのではございませぬか。殿がどこの馬の骨とも知れぬ女を何人囲おうと、今の私には関わりのないこと。……お好きになさいませ」
瀬名は扇子で口元を隠し、愉悦を孕んだ低い声で続けた。
「ただし……その女が、かつての侍女たちのように、無残に殺されぬことを祈っておりますわ」
五郎は拳を握りしめ、黙ってその毒を飲み下した。
隣で平伏する数正もまた、微動だにしない。だが、その鋭い感性は、瀬名の背後に置かれた文箱の文様に、ある「不吉な違和感」を捉えていた。
五郎たちが去った後、瀬名は鏡の前に座り、自らの顔をじっと見つめていた。
鏡の中に映る自分は、かつて今川の姫として慈しまれた頃の面影を失い、復讐と嫉妬に憑りつかれた般若のような顔をしていた。
「……あの方は、あんなに優しく笑う人だったかしら」
五郎がお愛に向けた、あの一瞬の眼差し。
それは、かつて若き日の家康が自分に向けてくれていたものと酷似していた。だが、今の「家康」が自分に向けてくるのは、慈しみでもなく、かといって憎しみでもない。ただ、義務感と、底知れない「哀れみ」であった。
「おかしいわね。あの方は、私のことをもっと怖がっていたはずなのに」
瀬名は、膝の上で震える手を、もう片方の手で強く抑えつけた。
目の前にいる男は、家康の記憶を持っている。家康の言葉を喋る。だが、その魂の「芯」が、自分の知っている家康とは決定的に異なっていた。家康はもっと脆く、自分に縋ることでしか立てない男だった。だが、今の男は、独りで地獄を歩く覚悟を完了させている。
「……そう。貴方は、家康様ではないのね」
瀬名は、暗い部屋で一人、声を殺して笑った。
夫が「偽物」であると気づいた時、彼女の心に芽生えたのは、怒りではなく、絶望的なまでの「納得」であった。本物の家康なら、自分をここまで突き放すことはできない。本物の家康なら、侍女たちを殺してまで自分を守ろうとはしない。
(だったら、私はこの男を道連れにして、本物の家康様のところへ行くまでだわ)
武田の忍びから手渡された、冷たい血判状。それが今、彼女の唯一の希望となった。
自分が裏切り、破滅することで、この偽物のメッキを剥がしてやりたい。あるいは、この偽物を「本物」以上の地獄へ叩き落としてやりたい。
瀬名の裏切りは、夫への憎しみではない。
奪われた「本物の愛」を弔うための、あまりに過激な殉教であった。




