【第十六話:白檀の灯火 —— 偽りの名、真実の誓い】
山寺での再会という奇跡から数時間が過ぎ、夜のしじまが辺りを包んでいた。
数正の計らいで、五郎とお愛は寺の一室で、誰にも邪魔されぬ二人きりの時間を許されていた。
部屋に漂うのは、五郎が渇望し続けた、あの白檀の香り。
五郎は、お愛の膝元に崩れるように座り込み、その温かな掌に顔を埋めた。
「……お愛。生きていてくれた。それだけで、私の暗闇に明かりが灯ったようだ」
五郎の声は、家臣たちの前で見せる「怪物」のそれではなく、震える一人の青年のものだった。お愛は何も言わず、五郎の乱れた髪を優しく撫で続ける。
「……だが、お愛。私は、兄上とのあの約束を果たすことができない」
五郎は顔を上げ、苦渋に満ちた瞳でお愛を見つめた。
「『正式な名をもらったら、お前を妻にせよ』……兄上はそう仰った。だが、今の私は、兄上の名である『家康』を騙って生きる影に過ぎぬ。五郎という名は、三方ヶ原で死んだのだ。……今の私がお前を側に置くには、徳川家康の『側室』とするほかない。……五郎の妻ではなく、家康の側室。そんな歪な扱いに、お前を落としてしまう私を許してくれ」
五郎の言葉は、謝罪というよりも、己の不甲斐なさへの慟哭であった。さらに五郎は、声を震わせ、最も言い難い告白を口にした。
「……それに、私は……お前以外の女人を、その……数正の命で、一度だけ抱かされた。織田の疑いを逸らすため、家康公らしく振る舞えと。……たった一度だ。だが、その一度きりの契りで、姫が授かった。……督姫だ。お前を裏切った証が、この世に残ってしまったのだ」
五郎は再び顔を伏せ、自らの不浄を嘆くように拳を握りしめた。
お愛は、五郎の頬を両手でそっと包み込み、穏やかに、しかし強く首を振った。
「五郎様。名など、器に過ぎないと申し上げました。……そして、その『一度』のことも、数正様からの文で知っております」
お愛の瞳には、責める色など微塵もなかった。
「数正様もまた、ご自身の魂を削りながら、その文を認めておられました。『五郎様の純潔を汚し、地獄へ突き落とす自分を、どうか恨んでくれ。私はもう、畳の上では死ねぬだろう』と……。あの方も、貴方様を汚す痛みに、血を吐くような思いで耐えておられたのです。……五郎様。その姫君は、貴方様が徳川という盤面を守り抜いた、尊い戦の証にございます。……決して、ご自分を責めないでくださいませ」
その言葉に、五郎の目から熱いものが溢れた。五郎はお愛を抱き寄せたい衝動に駆られたが、そっと彼女の手を握るだけに留めた。
「……有難う。だが、お愛。……今宵は、このまま手を握っているだけで許してくれ。……私はまだ、偽物の名のままで、お前を抱く勇気がないのだ。……いつか、私がこの『家康』という役割を全うし、兄上に胸を張って報告できる日が来るまで……私は、五郎としての真実を、この掌の中にだけ閉じ込めておきたい」
お愛はすべてを悟ったように、慈しむような微笑みを浮かべ、五郎の手を力強く握り返した。
「……はい。今宵は、ただ月の光を分かち合いましょう。……貴方様が歩まれる地獄の道を、私が白檀の香りで、少しでも和らげることができるのなら」
部屋の隅で揺れる蝋燭の火が、二人の重なる影を壁に映し出していた。
一晩中、二人はただ静かに語り合い、互いの体温を確かめ合った。
契りを交わさずとも、その魂は、かつてないほど深く結ばれていたのである。
翌朝、五郎は再び「怪物」の仮面を被り、城へと戻った。
数ヶ月後、お愛は「西郷局」として正式に城へ迎えられ、五郎の唯一の安らぎとして、その胎内に新しい命――長丸(秀忠)を宿すこととなる。




