【第七話:白檀の残り火 —— 束の間の休息と、忍び寄る影】
天正十年、六月。
三河・岡崎城を経て、五郎はついに本拠・浜松城へと帰り着いた。
命からがら伊勢の海を渡り、踏みしめた故郷の土は、安土の黄金よりも尊く感じられた。だが、出迎える家臣たちの前で、五郎は決して「疲れ」を見せることは許されない。
具足を纏い、一寸の乱れもない足取りで歩く。
その背後には、死線を共に越えた石川数正と本多忠勝が、影のように従っている。
「……殿。今宵は、もう休まれませ」
数正が、周囲に聞こえぬほどの低い声で告げた。その瞳には、五郎を歴史の荒波へ放り込んだ演出家としての、わずかながらも確かな慈悲が宿っていた。
五郎は無言で頷くと、重い仮面を被り直すように背を伸ばし、お愛の待つ奥御殿へと向かった。
障子を開けた瞬間、五郎の鼻腔を、優しく、しんしんと漂う白檀の香りが掠めた。
戦場の血の臭いも、伊賀の土埃も、信長の冷たい殺気も。その香りに触れた途端、すべてが嘘であったかのように霧散していく。
「……お帰りなさいませ、殿」
そこには、二人の子を抱え、穏やかに微笑むお愛がいた。
五郎は、数正や阿茶の前で見せる「怪物」の顔を、ようやく床に置いた。五郎の肩から、目に見えて力が抜けていく。
「……今戻ったぞ、お愛」
五郎は、吸い寄せられるように彼女の隣へ腰を下ろし、その膝に顔を埋めた。
お愛の温かな掌が、五郎の乱れた髪を優しく撫でる。その指先が、五郎の耳元に触れた時、彼女は微かに息を呑んだ。
「……殿。お手を見せてくださいませ」
お愛が、五郎の手を両手で包み込んだ。
そこには、刀によるものではない、薬草を煎じ、薬研を回し続けた者特有の硬いタコがある。そして、伊賀の山道で負傷した家臣を介抱した際に負った、痛々しい傷跡が残っていた。
「……これは、家康様の御手ではございませぬ」
お愛が、消え入るような声で囁く。
「これは、かつて私を救い、優しく薬を塗ってくださった……五郎様の御手にございます」
その一言に、五郎の瞳から熱いものが溢れ出した。
信長に「偽物」と見破られた時でさえ見せなかった涙が、彼女の前でだけは、止めどなく流れた。
その頃、奥御殿の廊下。
阿茶局は、冷える板間に立ち、五郎とお愛がいる部屋の明かりを、じっと見つめていた。
彼女の任務は、五郎が「清廉な五郎」に戻りすぎるのを防ぐための監視であり、同時に、この聖域を外敵から守るための盾であることだ。
阿茶の瞳には、冷徹な理知と、そして五郎が背負う孤独への深い理解が混ざり合っている。
「……お愛様。貴女だけが、あの御方の毒を抜くことができる」
阿茶は独り言のように呟き、着物の乱れを整えた。
「ですが……そのお身体で、いつまであの御方の重荷を分け合ってくださるのか」
阿茶の鋭い眼光は、お愛がふとした瞬間に見せる、わずかな顔色の悪さと、抑えきれない微かな咳き込みを見逃してはいなかった。五郎を救うための「聖域」が、少しずつ、しかし確実に削られていることを、彼女だけが悟っていた。
夜更け。お愛が深い眠りについた後、五郎は独り、月明かりの下で文箱を開いた。
中には、あの『元康』の紙。
その紙は、もはや原形を留めぬほどにひしゃげている。だが、そこにある兄の血と、息子の血、そして滲んだ文字は、今の五郎にとって、明日を生きるための唯一の「碇」であった。
「……兄上。私は、生き延びました。……そして、お愛の元へ戻りました」
五郎は、お愛の寝顔を愛おしそうに見つめた。
(お愛。……お前との時間は、あとどれほど残されているのだ。……この安らぎさえ、私は『家康』という名で奪い続けなければならぬのか)
信長が遺した「嘘の優しさで歴史を塗り潰せ」という命。
五郎は、ひしゃげた紙を胸に抱き、再び「怪物」へと戻るための静かな覚悟を決める。
遠くで、夜鳥が鳴いた。
それは、穏やかな日々の終わりを告げる、カウントダウンのようにも聞こえた——。




