95.戦場の光
昼下がりの王都は、やわらかな陽光に満たされていた。石畳の広場では商人たちが声を張り上げ、駆け回る子どもたちの笑い声が風に溶けていく。家々の窓辺では洗濯物が揺れ、白い布が青空に舞う。
――穏やかな日常。
「……おかあさん」
幼い少女が空を仰ぎ、かすかな声を漏らす。
「お空が……割れてる」
母親が怪訝そうに振り向き、その指先を追った瞬間、血の気が引いた。
蒼天の一角に、黒くひび割れたような“裂け目”が走っていた。雲一つない空を、深く、長く――まるで天の皮膚を裂くように、音もなく広がっていく。
「……結界に……ひびが……?」
誰かの震える声が、広場に落ちた。
次の瞬間――
ズォォォォ……ッ!
裂け目から黒い瘴気が吹き出す。空気が重く沈み、鼻を刺す鉄と腐敗の匂いが満ちた。
人々の笑顔が、ゆっくりと、色を失っていく。
ガルルゥッ!!
キシャァアアア――!!
闇の中から現れるのは、翼を広げて飛びかかる影、地を這い牙をむく黒き獣。
数息のうちに十、百――その数を数えることすら意味を失っていく。
「魔物だぁぁ!!」
「逃げろ!!」
悲鳴が王都を駆け抜ける。
だが、即座に動く者たちがいた。神殿の神官たちは補強術を唱え、神殿騎士と近衛騎士は剣を抜き市民を庇う。
「子どもを連れて! 神殿の地下へ!」
「負傷者はこちらに!」
指示が飛び交い、秩序がかろうじて保たれていた――が。
「……ッ、神殿の上層からも侵入を確認!」
空を見上げた神官の声に、皆が息を呑む。
聖域とされたセリオス神殿の天蓋、その真上にも裂け目が刻まれていた。
そこから這い出す、翼のある魔物。紫の瘴気をまとい、神殿を目指して降下してくる群れが空を覆う。
その様子を、バルコニーに立つユナが静かに見つめ、息を吐く。
「……やはり来たわね」
小さな声に、確かな覚悟が宿っていた。
背後の五大神殿の神官長たちが一斉に動き、王の間から駆けつけたアルヴァンが隣に並ぶ。
「近衛騎士団を城周辺と神殿前に配置した。……ここからが始まりだ」
「ええ。……準備はできてる」
その時、風が吹き抜けた。
街の喧騒も悲鳴も、ほんの一瞬だけ遠のいたように感じられる――嵐の前の、異様な静けさ。
それは血の匂いと共に、戦の始まりを告げていた。
王城の正面では、イリナが空に魔法陣を描き、水の刃で迫る魔物を斬り裂く。呪文の声は澄み、降り注ぐ水槍が群れを押し返す。
「こっちは任せて。絶対に突破させない!」
隣のベルンは、舞うような動きで空からの魔物の翼を切り落とす。金色の刃が陽光を受けて閃き、敵の間を縫って駆け抜ける。
「倒しても倒しても……キリがないっ!」
背後から、オズマの低い声が響く。
「嘆くな。迎え撃つだけだ。我らは守り手――それが誓いだ」
杖が地を打ち、光の刃が放たれる。三人は背を合わせ、押し寄せる群れに立ち向かった。
少し離れた大路では、セトが神殿騎士たちと応戦していた。
「負傷者を後方へ! 結界を張れ、傷を癒す!」
詠唱と共に聖印が地を這い、結界の壁に癒しの光が広がる。
だが――
大地を震わす轟き。
空の裂け目が深く歪み、闇色の瘴気が溢れ出しては、奔流のように世界を侵していく。
時間が、わずかに止まった。
誰もが呼吸を詰め、次に現れるものを予感していた。
「……来るっ!」
黒い鱗に覆われ、紅の双眸を灼く巨影――邪龍。翼の一振りで風が唸り、地が砕ける。
咆哮が響き渡り、世界が一瞬で赤に染まった。
灼熱の炎が神殿を包もうと迫る。
「全員退避――!」
セトの結界が展開されるも、炎は焼き尽くそうと迫る。
熱気が押し寄せ、皮膚が焼ける寸前――
その時。
「――断罪の光よ」
戦場を貫く声。
黄金の光が天から降り、炎を霧散させ、神剣のように邪龍を貫く。
見上げれば、白き衣を風になびかせたユナの姿。掲げられた右手から光が集まり、槍となって放たれる。
邪龍は悲鳴を上げる間もなく、一瞬で塵と化した。
静寂――ただ風だけが、焼け焦げた匂いを運んでいく。
セトは息を呑む。
「これが……完全な力を取り戻した、ユナ様の……」
畏怖と敬意、そして希望が胸に灯った。
だが、それはほんの束の間だった。
「まだ来るぞ!」
誰かの叫びと共に、通りの奥から黒い奔流が押し寄せてくる。
百をゆうに超える魔物の群れ。牙を剥き、爪を振り上げ、獲物を求めて吠える声が路地を揺らした。
悲鳴を上げて逃げ惑う市民、その背を守ろうと必死に剣を振るう兵。
ユナは、ただ一歩前に進み出た。
その眼差しは、すでに獲物を定めた狩人のそれだった。
右手を高く掲げる。
瞬間、空気が張りつめ、光の粒が夜明けのように街路を満たしていく。
「――降れ」
低く、澄んだ声。
次の瞬間、天より無数の光矢が降り注いだ。
鋭く、速く、迷いなく。
光は百の影を正確に貫き、苦鳴をあげる暇もなく魔物たちは霧散していく。
焼け付くような瘴気の匂いが消え、ただ光の余韻だけが石畳を照らした。
その場に残ったのは、光の残滓と、息を呑む人々だった。
剣を構えていた兵も、逃げ惑っていた市民も、誰もが動きを止め、ただその姿を見つめている。
さっきまで街を覆っていた瘴気は、まるで初めから存在しなかったかのように消え去り、光だけが残されていた。
「……あれが……聖女……」
誰かが震える声で呟く。
次いで、押し殺していた嗚咽のような息が、あちこちから漏れた。
子どもを抱きしめる母親、膝をつき祈る老人、安堵のあまりその場に座り込む若者――
その視線は皆、一人の女性に向けられていた。
白き衣をまとい、風に髪を揺らすユナ。
彼女は民の視線を受け止めながらも、表情を崩さず、次の脅威を探すようにゆっくりと周囲を見渡す。
近くで剣を振るっていたルカが、思わず動きを止める。
「……これが……本当の、あんたの力か」
声は驚きと、ほんのわずかな畏れを帯びていた。
少し離れた場所で戦況を見守っていたアルヴァンも、その光景から目を離せない。
「……あの頃と、何も変わらない」
低くつぶやく。
「すべてを照らし、退ける――これが、聖女サクラの光だ」
その言葉は、懐かしさと誇り、そして複雑な感情をないまぜにして、静かに空へ溶けていった。
その言葉を最後に、短い沈黙が落ちた。
風が、戦いの残り香を運び去っていく。
視線を巡らせれば、剣を杖代わりに立ち上がろうとする騎士、路地の影で肩を押さえて蹲る市民、血に濡れた腕を庇う少年――
あちらこちらに、痛みに顔を歪める人々の姿があった。
ユナは、静かにアルヴァンの方へ歩み寄った。
「……怪我人が、こんなにも」
その声は低く、しかし澄んでいた。
あれほどの魔力を解き放った直後だというのに、息の乱れもなく、声に疲れの影はみじんもない。
アルヴァンは短く頷く。
「……頼む。皆を」
ユナは頷くと、深く息を吸い込み、目を閉じた。
その両手を胸の前で組むと、彼女の周囲に淡い銀光がふわりと広がり始める。
まるで雲間から降りる月の光のような、澄んだ輝き。
光は波紋のように地面を伝い、広場全体、さらにその先へと静かに満ちていった。
「……あ……」
倒れていた兵の頬に血の色が戻り、裂けた皮膚が音もなく閉じていく。
咳き込みながら立ち上がった老兵が、涙をこぼしながらユナを仰ぎ見た。
母の腕の中でぐったりしていた子が、ゆっくりと目を開ける。
銀の光は、傷だけでなく、人々の怯えた心までも撫でるように和らげていく。
泣き声が笑みに変わり、悲鳴が感嘆の吐息へと変わっていった。
アルヴァンはその光景を見つめながら、低くつぶやく。
「……君の力を、二度とこの世で見ることはないと……そう思っていた」
静かな吐息と共に、アルヴァンはその奇跡を噛みしめるように目を細めた。
その横顔には、戦場の王ではなく、一人の男としての深い想いが滲んでいた。
――その時だった。
風向きが、ふいに変わった。
遠くで金属の軋むような音がし、ほんのわずかに、血の匂いが強まる。
広場を包んでいた穏やかな銀光の中に、誰もが気づかぬほどの微かな影が差した。
ユナのまつげが、かすかに揺れる。
胸の奥に、冷たいざわめきが広がっていく。
――近づいてくる。
その予感だけが、空気をひりつかせていた。




