93.微かな光
夜の風が静かに聖女殿を撫でていた。灯りを落とした一室の中、マナは祈祷書の前で静かに目を閉じていた。
癒しの力は、もうこの手にはない。それでも祈ることだけは、手放したくなかった。誰かの無事を、明日の希望を、祈りのかたちにしてそっと天に託していた。
コン、と小さなノックの音が扉を叩く。
「……マナ。私です。入ってもいいですか?」
聞き慣れた声にマナは目を開き、ほっとしたように微笑む。
「……はい、どうぞ」
扉が静かに開き、セトが姿を現す。月明かりが彼の肩に落ち、静かな佇まいをより際立たせていた。
「遅くにすみません。あなたのことが少し気がかりで……魂を返したことで、身体に何か変化がないかと」
その声には、神官長としての冷静な配慮と、どこかそれだけではない優しさが滲んでいた。
マナはそっと首を横に振る。
「大丈夫です。体調は問題ありません。ただ……やっぱり、聖女の力はもう、私の中には残っていないみたいです」
彼女はそっと自分の掌を見つめる。
「もう、誰かを癒すことはできない。そう思うと……少しだけ寂しくて」
セトはマナの前に静かに腰を下ろし、その言葉にゆっくりと頷いた。
「確かに、かつてのような聖なる力は失われたのかもしれません。でも……私は、あなたの中に今も“光”を感じています。とても優しい、柔らかな光です。 それは“聖女”という役目から与えられた力ではない……きっと、あなた自身が持っている、本来の力なのだと思います」
マナははっとしたように手のひらを見つめ直した。
「……私の中に、まだ……」
そして、少しだけ微笑む。
「……そうですね。いつかまた、この手で誰かを助けられたら……嬉しいです」
セトも柔らかく微笑んだ。
「ええ。あなたなら、きっと」
しばらく、優しい沈黙がふたりのあいだに流れる。けれどその静けさは心地よく、あたたかかった。
セトはふと少し目を伏せ、そして小さく息をついた。
「……正直に言います。あなたのことを心配していたのは事実ですが、本当は……ただあなた会いたくて、ここへ来てしまいました」
マナの頬に、ふわっと色が差す。
「そんな……急に、どうして……」
照れ隠しのようにうつむくマナに、セトは優しく笑みを浮かべた。
「嵐の前の静けさのようなこの夜に……どうしてもあなたの顔を見て、声を聞きたくなったんです。
いつ魔物との戦いが始まるか分からない。……私も、少しだけ緊張しているのかもしれません」
マナは小さく頷くと、少しだけ真剣な表情を浮かべる。
「セト様も……ヴァルザと戦うのですよね」
「はい。神官であっても、ただ癒しを担うだけではありません。前に立つ時が来れば……剣よりも強くあらねばならないこともありますから」
その言葉に、マナはぎゅっと両手を組み、胸の前にそっと重ねた。
「……セト様のために、祈らせてください」
目を閉じ、心からの祈りを捧げるマナ。その掌から、微かにあたたかな光が溢れ、セトの周囲をやさしく包んだ。
「これは……」
驚いてマナが目を開けると、淡い祝福の光がまだ、セトの肩先に揺れていた。
「……今の、私……?」
セトは静かに頷いた。
「ええ……やはり、あなたは気づいていなかっただけです。これまでユナ様の光が強すぎて、隠れていたのでしょう。あなたの中にも、確かに“光の力”がある」
そして、静かに言った。
「ありがとう、マナ。……あなたからもらったこの祝福を纏って、私は必ず、ヴァルザとその魔物たちを討ちます」
その言葉とともに、セトはそっとマナを抱きしめた。
驚きと戸惑い、そして溢れる想いが胸を満たして、マナの目からぽろりと涙がこぼれる。
「……セト様、どうか……ご無事で戻ってきてください……っ」
震える声でそう願うマナ。
「私……あなたのことが……」
けれど、その先の言葉は、セトがそっとマナの額に口づけたことで、静かに胸の奥へと戻っていった。
「……続きは、ヴァルザを倒したあとに。私の口から言わせてください。……私は必ず、あなたのもとに帰ります。何があっても」
そう言って、セトはそっとマナの頭を撫で、静かにその場を後にした。
扉が閉まる音が、ゆっくりと夜に溶けていく。
マナはその場に立ち尽くしたまま、あたたかな余韻の中で、胸の鼓動を感じていた。
そのとき、ふわりと風が舞った。
気づけば足元に、白くやわらかな毛並みの魔獣が寄り添っていた。
「……カグヤ」
そっとしゃがみこみ、マナはその小さな体を抱きしめた。
カグヤは優しく彼女に身を預け、濡れた頬にそっと舌を伸ばした。
ぺろり、ぺろりと、まるで慰めるように。
マナは目を細め、カグヤの背をそっと撫でる。
「……ありがとう、カグヤ。もう少しだけ、私のそばにいて……」
震える声の奥に、少しの不安と確かにあたたかな想いが灯っていた。カグヤのぬくもりが、それをそっと支えてくれているようだった。