92.託す末来
謁見の間を満たしていた緊張が、音もなくほどけていく。
神官長たちが退出し、ザカリアも静かに扉の奥へと姿を消す。
やがて重厚な扉が静かに閉じられ、室内に、深い静寂が訪れた。
残されたのは、ただ二人。
ユナと、アルヴァン。
遠くから蝋燭の揺れる光だけが、長い影を引いている。
ユナは小さく息を吸い、深く一礼した。
「……では、陛下。私もこれで失礼します」
そう言って背を向けかけた時、低く穏やかな声が呼び止めた。
「ユナ」
その名を呼ばれた瞬間、ユナの足が止まる。
「……もう、そんなふうに改まった口調で話さなくてもいい」
その静かな言葉に、ユナはゆっくりと振り返る。
戸惑いをにじませながら、彼を見つめた。
「でも……あなたは――」
アルヴァンは、少しだけ笑ってみせた。
けれどその目は真剣だった。
「昨日、ロイゼルと話がついた。この戦いが終わったら、王位は彼に譲る」
ユナの瞳が揺れる。
その言葉の重みを、すぐに察した。
「……なんで……」
アルヴァンは頷いた。
「レイナとリリアナが犯した罪――
その責任は、王として、父として、そして夫であった俺が取らなければならない。
目を逸らしていたことも、見抜けなかったことも……すべて、俺の過ちだ」
彼の声は、悔いと決意が交じっていた。
そして、少し声を和らげて続ける。
「だからもう、そんな改まった話し方をする必要はない。
それに……以前の君だって、この国の王子だった俺に、敬語なんて使っていなかっただろう?」
ユナは、ふっと表情を緩めた。
その瞳に、どこかあたたかな光が戻る。
「……わかったわ、アルヴァン」
その名を呼ぶだけで、少し胸が熱くなった。
彼もまた、微笑んで頷いた。
「……ありがとう、ユナ。
リリアナのために――いや、この国のために、もう一度“聖女”として立ち上がってくれることに、心から感謝する」
「……そんなふうに言われると、くすぐったいわね」
ユナは、やわらかな微笑みを浮かべながら続けた。
「でも……思い出したの。初めてこの国に来たときのこと」
ユナはふと目を細め、遠くを見つめるように言葉を紡いだ。
「右も左も分からない異世界で……最初はただ、誰かに言われるまま祈って、癒して、それだけで精一杯だった」
アルヴァンは黙って耳を傾ける。
その横顔に、ほんの少しだけ柔らかな陰影が落ちた。
「でも、ある時ふと気づいたの。私の力で、誰かが生き延びたこと。誰かが、笑ってくれたこと」
言葉に込められる記憶は、あたたかく、少し切なかった。
「自分が役に立てるって……“必要とされている”って、ちゃんと感じられることが、こんなに嬉しいなんて思っていなかった」
ユナは、ふわりと微笑んだ。
「それから少しずつ、この国のことが好きになっていったの。神殿の中の澄んだ空気も、石畳の上を歩く音も、風の匂いも、街のざわめきも……全部。
そして、そこで出会った人たちのことも」
アルヴァンの瞳がわずかに揺れた。
「――あなたのことも、ね」
その言葉に、アルヴァンは息を呑む。
ほんの一瞬だけ目を伏せ、そしてわざとらしく肩をすくめて見せた。
「……ずるいな、そういう言い方は」
ユナはくすっと笑う。
「ふふ、照れてるの?」
「照れてない」
すぐさま返したアルヴァンだったが、わずかに耳が赤い。
ユナはその様子に、楽しそうに目を細めた。
「……君は、いつだってそうだ。肝心なことを、何でもない顔で言ってのける」
「……伝えたいことは、そう思った時に伝えないとね。後になればなるほど、きっと……形が変わってしまうから」
言葉の先に、二人が過ごした遠い時間が静かに立ちのぼる。
かつて交わした想いが、時を越えて、再びそっと重なっていく。
アルヴァンは、そんなユナを見つめながら、静かに呟いた。
「……あの時、聖女としてこの国に現れたのが君で、本当によかった。
過去に悔いはあるけれど……こうしてもう一度、君に会えたこと――それは、奇跡だと思ってる」
少しの沈黙のあと、アルヴァンはそっと目を伏せ、そして言った。
「――また怒られるかもしれないけど」
「え?」
「リリアナを取り戻し、ヴァルザを封じて……すべてを終えたとき、もし君が許してくれるなら―― 俺は、ただ一人の男として、君のそばで……生きていきたい」
その言葉に、ユナはふと目を伏せた。
小さく息を吸い、何かを言いかけ――けれど、そのまま口を閉じる。
そして――ゆっくりと、けれどどこか悲しそうに笑った。
「……もし、すべてが終わったとき、私が―― マナのそばにいられなかったとしたら。
その時はアルヴァン、あの子のことを……あなたに託してもいい?」
「ユナ……」
アルヴァンの声が震えた。
「なぜ、そんなことを言うんだ……? まるで……別れの言葉みたいじゃないか……」
ユナは、そっと微笑む。
「違うわ。これは“もしも”の話よ。
私の力が戻った今、ヴァルザなんかに負けてやるつもりはない。
でも……母って、そういうものなの。
どんなときでも、“もしもの未来”を想像してしまう」
その言葉に、アルヴァンは目を伏せたまま、静かに頷いた。
「……わかった。万が一そうなった時は、俺が……マナを守る。君に代わって、あの子のそばにいるよ」
そして彼は顔を上げ、まっすぐにユナの目を見つめた。
「しかし、君が、あの子のそばにいられる未来を……俺は守りたい。だから、何があっても君を守る。命に代えても、絶対に」
その言葉に、ユナはふっと微笑み、ようやく安堵の色を浮かべた。
「ありがとう……それだけで、私は十分よ」
くるりと身を翻し、静かに歩き出す。
その背に、アルヴァンは言葉をかけなかった。
ただ、見送ることしかできなかった。
扉の前で、ユナがふと振り返る。
何か言いかけて――けれど、結局何も言わずに、微笑みだけを残して扉の向こうへ消えていった。
静寂が戻る。
アルヴァンは、そこにしばらく立ち尽くしていた。
胸の奥に残った温もりと、かすかな不安。
ユナの最後の微笑みが、どこか“さよなら”と言っているようで――どうしても、胸から離れなかった。




