90.魂に触れるとき
その日の夕刻、ユナは聖女殿を訪れ、マナの元を静かに訪れた。
マナの部屋の前には神殿騎士と近衛兵が配置され、結界も張られている。
どれほど守りを固めたところで、ヴァルザの侵蝕を完全に防げるとは限らない。それでも、何もしないよりは――と誰もが信じたかった。
「マナ、これから……大切な話があるの」
部屋にいたリリーに席を外してもらい、ユナは娘と向かい合ってテーブルについた。
「それって……リリアナ様を助ける方法の話?」
マナが静かに尋ねると、ユナは小さく頷き、視線を伏せた。
「ええ。彼女を救うために、私たちができること……その可能性について」
しばしの沈黙を挟んで、ユナは問いかける。
「マナ……もしその方法が、あなた自身の命を危険にさらすものだったとしても……それでも、リリアナを助けたいと思う?」
マナはユナの瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「……命がなくなるって言われたら、正直、怖い。きっと、迷うと思う。
でも……もし本当に救える方法があるなら、ちゃんと話を聞かせて。お母さん」
その言葉にユナはほほ笑んだ。
「ありがとう、マナ。でもね、私は……マナを犠牲にしてまで、その道を選んではいけないと思ってるの。無理だと感じたら、諦めてもいい。そう決めていたの」
マナはこくりと頷いた。
「前に話した通り、マナ。あなたの中には、私の魂の半分がある――
封じられたヴァルザの核と、一緒に」
ユナの声は静かに、けれどはっきりとした決意を帯びていた。
「その魂の中には、私がかつて聖女だった頃の“力”も含まれているの。
……もし、その魂を私のもとに戻すことができれば――もう一度、ヴァルザを封じる力を得られる」
マナはしっかりとユナを見つめ、言葉を返す。
「……わたしが“癒しの魔法”を使えるのは……その“聖女の力”が、お母さんの魂として私の中にあるから、ってこと……?」
ユナは、どこか寂しげに微笑んで、頷いた。
「そうよ。お母さんが、あなたに魂を渡したせいで……あなたに聖女の力が宿った、そしてこの世界に“聖女”として呼ばれてしまった。
本当なら、もっと平凡な日常を生きていたはずなのに。……ごめんね、マナ。気づいていたのに、ずっと黙っていて。
私はあなたの人生を、大きく変えてしまった……」
マナはすぐに首を振った。
「ううん。そんなふうに思わないで。私、この世界に来て、辛いこともあったけど、今では良かったって思えることの方が多いの。お母さんもこの世界に来てくれたし……。それにね、この力のおかげで、沢山の人を救うことができて、嬉しかった」
そしてマナは立ち上がる。
「ねえ。お母さんの魂を、私の中から取り出して返すことで、リリアナ様を救えるなら――わたし、そうして欲しい」
ユナは驚きもせず、ただ静かに娘の勇気を見つめていた。
「……でも、それを行えば、あなたの魂に何が起こるか、誰にも分からないの。
記憶を失ってしまう可能性もある……」
「記憶……を?」
一瞬、マナの顔に戸惑いが走る。だがすぐに、瞳に意志の光が戻った。
「それでも。記憶を失ったって、大切なことはきっとまた思い出せる。
お母さんがそうだったみたいに……。だから、私は――リリアナ様を助けたい」
その眼差しは真っ直ぐで、揺るぎなく、誰かを信じる強さに満ちていた。
(……あなたは、やっぱりあの人の子ね)
マナの中に確かに宿る、若き日のアルヴァンの面影に、ユナの胸はそっと揺れた。
ユナは、ふと窓の外に目をやった。
夕暮れが完全に夜へと姿を変え、空には月が昇っている。薄い雲の向こうから洩れるその光が、まるで静かな祈りのように、二人のいる部屋を照らしていた。
「……リリアナを救うまでに、もう……時間がないの」
ぽつりと落ちたユナの声に、マナの背筋がすっと伸びる。
「核の目覚めが進めば……リリアナの魂は、完全に押しつぶされてしまう。
たとえマナを危険にさらすとしても……今動かなければ――間に合わないわ」
ユナはマナの手を取り、そのぬくもりを確かめるように指を絡めた。
触れ合った手のひらから伝わる鼓動が、たしかに“生きている”ことを示している。
「……今、ここで?」
マナの声は、震えていなかった。ただ、その瞳の奥は微かに揺れていた。
ユナはそっと頷いた。
「ええ。でも……本当にいいの? これで何かが変わってしまっても――」
マナは微笑んだ。
「ううん、大丈夫。だってこれで何かが変わったとしても、私がお母さんの娘であるってことは変わらない。それなら怖くない」
その言葉に、ユナの胸がぎゅっと締めつけられた。
この子は、どれほどの覚悟をもって今ここにいるのだろう。
それでもなお、誰かのために何かを差し出せる強さを持っている。
「ありがとう、マナ……」
ユナはそっと立ち上がり、部屋の中央に歩み出た。
ゆっくりと両手を広げると、神聖な魔力が空気を揺らし、足元に淡い光の紋章が浮かび上がる。
「そこに立って。目を閉じて、私の声だけを聞いて」
マナは頷き、指示通りに光の輪の中へ入った。
ユナは両手を胸元に重ねると、静かに祈るような声を紡ぎはじめた。
「……聖なる光よ、我が魂の片割れよ……いま一度、我が身へ還れ。
――契りし想いに応え、いま、光と共に繋がりを戻せ……」
言葉が響くたびに、マナの身体から淡い金色の光がゆっくりと滲み出していった。
それは一筋の祈りのように――静かに、けれど確かに形を持ち、やがて空へと舞い上がっていく。
それはやさしく、そしてどこか切なげに――まるで母に別れを告げる娘の涙のように、ゆっくりと空中へ舞い上がる。
光は一つ、また一つと天へ昇りながら、やがて幾筋もの細い光条となって、部屋の空間を優しく満たしていく。
マナの瞳は静かに閉じられていた。
けれど、その表情は穏やかで――微笑んでいるようにも見えた。
苦しみも痛みもそこにはなく、ただ母を信じて身を預ける少女の、深い安らぎだけが残っていた。
やがて、舞い上がった光はふわりと進路を変え、ユナの胸元へと引き寄せられていく。
それは求め合うように、戻るべき場所を知っているかのように――音もなく、そっと彼女の中へと溶けていった。
次の瞬間、部屋の空気が震えた。
強い風が、どこからともなく吹き込む。
カーテンが大きく揺れ、書棚の紙が舞い上がる。
けれど、それは春の草原をなでる風のように、あまりにやさしく、祝福にも似た風だった。
二つに分かたれていた魂が、ようやく一つに戻った。
それはきっと、神すらも見守る再生の瞬間だったのだろう。
風の中に、誰にも聞こえない祝詞のような、光の囁きがかすかに満ちていた。
「……っ」
ユナは、思わずその場に膝をついた。
風が止み、世界が静まり返る――けれど彼女の内側では、何かが確かに目覚めようとしていた。
胸の奥から広がっていく熱。
それは懐かしく、痛みを伴いながらも、優しく彼女を満たしていく。
まるで眠りについていた魂の奥底から、ひとつひとつの想いが呼び起こされるように。
力が戻ってくる。
祈りとともに生きた日々、命を賭して封じた記憶、
そして“聖女サクラ”としてのすべて――
それらが、時の壁を越えて今、確かに自分の中へ還っていく。
喜びでも悲しみでもない、ただ圧倒的な実感。
ああ……この力は、私が選び、背負ったもの。そして今、再びこの手の中にある――。
同時に、忘れかけていた痛みもまた、深く魂に刻まれてゆく。
それでもユナは目を伏せ、そっとそのすべてを受け止めた。
静かに、確かに、ひとつの“存在”が自分の中で再び息を吹き返していく。
だがその瞬間、ふいに胸をかすめた、ひとつの気配。
自分のもとから離れていった、愛しい光の残響。
「……マナ!」
その名を呼んだ声は、自分でも驚くほど切実だった。
慌てて顔を上げると、そこには――
そこには倒れもせず、変わらず立っている娘の姿があった。
「……マナ、大丈夫……? どこか、痛むところはない?」
心配に駆られ、立ち上がろうとするユナに、マナはふっと笑って答えた。
「……なんともないよ。少し、ぽかぽかするくらい」
マナは両手を胸元に当て、じんわりとした温かさを確かめるように目を閉じた。
「すごく……静か。お母さんの魂が、もうここにはないって……ちゃんとわかる。
でも不思議と、寂しくないの。
だって……お母さんの“想い”は、ちゃんとここに残ってる気がするから」
ユナは目頭を押さえた。
その姿があまりに眩しくて、いとおしくて――声をかけることさえ、一瞬ためらわれるほどだった。
「マナ……ありがとう。本当に、あなたは……」
「お母さん」
マナが一歩、近づいてくる。
「これで、リリアナ様を助けられるんだよね?」
ユナは、静かに頷いた。
「ええ。もう一度、封印を完成させるだけの力が戻った。
……リリアナの中の“声”を、きっと止められる。あなたが勇気をくれたから」
その言葉に、マナはふっと笑みを浮かべ、照れたように目をそらした。
「よかった……ほんとうに、よかった……」
再び月光が差し込む。
それは、母と娘が選んだ未来を、そっと包み込むように――
静かに、やさしく、夜の静寂へと溶けていった。




