89.仄かな光
王宮の地下――重く冷たい空気が、石壁に反響している。
「……本当に、行くのか?」
牢獄へと続く階段の前で、アルヴァンが立ち止まり、振り返った。
ユナは頷く。迷いのない目だった。
「ええ。どうしても……カリオンと、二人で話さなければならないのです」
その表情に、アルヴァンはわずかに眉を曇らせた。
「……奴が、真実を語るとは限らない」
「だからこそ一人で話がしたいのです。近くに誰かがいれば、きっと口を閉ざしてしまう。」
静かに、しかし決然としたユナの声に、アルヴァンはしばし黙し――やがて、深くうなずいた。
「……わかった。すぐ外にいる。何かあれば呼んでくれ」
「ありがとうございます。陛下」
ユナは一人、牢の奥へと足を踏み入れた。
灯りの乏しい空間。鉄格子の向こうに、うずくまる影がひとつ。
その男――カリオンが顔を上げた瞬間、彼の全身が激しく揺れる。
「……っユ、ナ……!?」
縋るような瞳。信じられないという思いと、会いたくなかったという葛藤が交錯していた。
「何をしに来た、ここに来て……どうするつもりだ。私を罵るか……それとも、責めるか?」
その言葉に、ユナは首を横に振る。静かに、優しく。
「違うの。今日来たのは、あなたを責めるためじゃない」
カリオンの瞳が、わずかに揺れる。
ユナは、鉄格子の前で膝を折り、そっと言葉を重ねた。
「あなたは、かつて私の導き手だった。そして、リリアナの父親。
だからこそ……今、どうしても力を貸してほしいの、いえ、力になってくれると信じている」
「……っリリアナ……」
その名を聞いた瞬間、カリオンの目に涙があふれた。
「……あの子は、今どうなっている……?
ユナ……あなたの目に、あの子は……まだ“人に見えたか?」
「ええ。……見えたわ」
ユナは、微笑みながらそう言った。
「深い闇に呑まれかけていても……彼女の中には、確かに人の心が残っている。あの子は、まだ……帰ってこられる」
カリオンは拳を握りしめ、唇を噛んだ。
ユナの瞳は、ただまっすぐに、カリオンを見つめていた。
そして、そのまま小さく息を吸い――言葉を続けた。
「……あなたに、ひとつだけ確認したいことがあるの」
カリオンがわずかに顔を上げる。
「あなたは、気づいてたんでしょう。
ヴァルザを封印する時、マナ――あの子が、もう私のお腹の中にいたってことを」
その問いに、カリオンの目が大きく揺れた。
「……やはり、そうか……」
苦悶の表情が、その顔を歪める。
ユナはゆっくりとうなずいた。
「そうよ、私自身も気づいてはいなかったけれど、あの子はあの時すでに私の中にいた」
静かに、けれど確かに言葉を紡ぐ。
「だから私は――命を失わずに済んだんだと思う」
ユナは胸元にそっと手を置き、記憶をたどるように目を伏せた。
「あなたに教えられた通りに、私は自分の魂にヴァルザの核を封じた。そしてそのまま消滅するはずだった。
でも――王家の血を引くマナを、その身に宿したまま封印を行ったことで、命を失わずに済んだ。
でもその時、封印の理そのものを歪めてしまったんだと思う。封印は完全に行われず、ヴァルザの欠片はこの大地に残った」
「……!」
カリオンは言葉を失い、頭を抱えた。
「そんな……じゃあ……私があなたを陥れようと、命を代償にした封印方法を教えたせいで……!
私のせいで、リリアナは――」
苦悩と後悔に満ちた叫び。
ユナは、鉄格子越しにその姿をじっと見つめて、静かに語った。
「……そうね。
親って、自分の間違いで子どもが傷つくのを見るの、いちばんつらいわよね」
その声には、怒りも責める気持ちもなかった。
「でも……私も、同じなのよ」
ユナはゆっくりと言葉を続けた。
「あのとき、マナの命を守るために、無意識に自分の魂を半分、あの子に渡したの。
だから、ヴァルザの核は、私とマナ、二人の魂に――半分ずつ封じられてる」
そして、そっと顔を上げ、まっすぐにカリオンを見つめる。
「ねえ、カリオン」
その声には、聖女ではなく、一人の母としての想いが宿っていた。
「マナの中にある“私の魂”を取り出して――もう一度、私の中に戻すことって、できると思う?」
カリオンは、はっと目を見開いたまま、しばらく言葉を失っていた。
だが、ユナの真剣な瞳に応えるように、彼もまた視線を逸らさず、ゆっくりと口を開いた。
「……理論上は、可能だ」
声は低く、かすかに震えていた。
けれど、その震えの奥には、責任と覚悟が滲んでいた。
「マナの中にある魂の一部――“あなた”の魂を切り離し、あなた自身の肉体へと還す。
それは不可能ではない。
無意識であったとしても、自分の魂をマナに分け与えることができたあなたなら、誰に教わらなくともできるだろう……ただし」
そこで一度、カリオンは言葉を切った。
僅かに顔を伏せ、唇を噛みしめるようにして、次の言葉を慎重に選ぶ。
「……その過程で、マナの魂にどれだけの負荷がかかるか、完全には予測できない。
カリオンはそう前置きし、慎重に言葉を継いだ。
「時間を共に過ごす中で、おそらくマナの魂には……あなたの魂が、深く染み込むように融合している。
境界は曖昧で、どこまでがマナで、どこからがあなたなのか――今となっては、はっきりと区別できないほどに、だ」
彼は一瞬、ユナの表情を見つめてから、ゆっくりと視線を落とした。
「……その融合を無理に引き剥がしたとき、マナの魂にどんな影響が出るのか……それは、誰にもわからない。
意識や記憶に支障が出るかもしれないし、何も起きないかもしれない。
ただ確かなのは――それが“元に戻す”という単純な行為ではないということだ」
ユナは静かに頷いた。
「……それでも。やらなければいけないの」
「あなたが“聖女”として、再び完全な力を取り戻すには……それしかない。
ヴァルザを封じ直すには、“真の聖女”の魂が必要なんだ。
そして今のあなたは、“魂の半分”しかない状態……封印の力も、完全には働かない」
カリオンの声は、どこか苦しげだった。
「あなたを傷つけた私に言えることではないが……リリアナを……あの子をもし、救いたいと思うなら――どうか」
そのときだった。
ユナがそっと右手を胸元にあて、ふっと微笑んだ。
「ありがとう、カリオン。あなたの話を聞けて良かった。リリアナのことは私がなんとかするわ。だからあなたは……きちんと罪を償って、あなたの口からもう一度リリアナに――“愛している”って伝えてあげて」
カリオンは何も言わなかった。
ただその目に、ほんの一瞬だけ――過去に手放してしまった光を、確かに宿していた。




