88.二人の娘
沈黙が、再び応接室を包み込んだ。
マナは、そっと唇を震わせる。
「……ヴァルザは……私を差し出せばリリアナ様は助けてやるって……そう言ったんですよね?」
声はかすかに震えながらも、どこか確かに届くような、静かな力を秘めていた。
アルヴァンが顔を上げ、ゆっくりと頷いた。
「……そうだ」
その声は、低く、苦悩を押し殺した響きだった。
「だが、マナ。――君とリリアナ、ふたりの命を天秤にかけるようなことなど……私には、できない」
(リリアナ……私は、お前を自分の娘として育て、心から守りたいと願ってきた。たとえ血の繋がりがなくとも、今も大切に思う気持ちは変わらない。けれど――ユナの……彼女の愛する娘を、犠牲にすることも、私にはできない……)
掌が強く握られる。心が千々に裂けそうだった。
アルヴァンは、黙して苦悩を飲み込んだ。
「誰かを犠牲にして守る王国に、未来などない……そう信じている」
マナはその言葉に、少しだけ目を伏せてから、母の横顔を見つめた。
ユナが静かに口を開く。
「もし……マナを差し出せば、ヴァルザは確実に“力”を取り戻すわ」
その言葉に、空気がぴんと張りつめた。
「いまはまだ、かつての“完全体”ではない。けれどマナの魂の中にある“核の片割れ”を取り込めば……次は私の中にある、もう半分を狙ってくる」
胸元にそっと手を添え、目を伏せる。
「そうなれば……私はきっと、もう勝てない。いまの私には、あの力を抑えきれる術はないの」
ルカが、小さく息を吐いた。沈痛な面持ちのまま、視線を落とす。
「ならば……国を守るという意味で、選ぶべき道は――明白だ」
その声は、どこまでも苦しげだった。
「国を守るには……どちらかを選ばねばならない時がある。誰かを救うために、別の誰かを犠牲にする――それが……“正しさ”になってしまう現実も、あるんだ……」
ルカの拳が、静かに震えていた。
セトもまた、黙したまま視線を落とし、言葉を探すように沈黙している。
だが――ユナは、迷いなく言葉を返した。
「……でも、それでも私は、リリアナの命を諦めたくはない」
まっすぐにルカを見つめるその瞳は、深く静かな覚悟を湛えていた。
「彼女は多くの過ちを犯したわ。でも、その心の奥には……ずっと、救いを求める声があった。誰かに愛されたかった……ただ、それだけの少女だった」
ユナは隣にいるマナへと視線を向け、そっと問いかける。
「マナも、そうよね?」
マナは力強く頷いた。
「はい。たとえ何があっても、私は……リリアナ様を見捨てたくありません。どこかに、きっと、まだ……“戻れる道”があると信じたいんです」
その言葉に、セトが目を閉じ、小さく息を吐いた。
その静けさの中で――ユナは、ゆっくりと立ち上がった。
「……もしかしたら、まだ“手”はあるかもしれない」
全員の視線が、彼女に注がれる。
「私がかつて行った封印は、間違ったものだった。でも……だからこそ、見えたものもある。
――失われた古い理の中に、それを見つけられるかもしれない」
ユナの声には、わずかな希望の光が宿っていた。
「どんな方法であれ、リリアナの魂を“ヴァルザから引き離す”ことができれば……きっと、彼女は戻れる。
私は……それを諦めたくないの」
誰もが、その言葉を否定できなかった。
長く静かな沈黙の中で、アルヴァンがようやく小さく呟いた。
「ありがとう……やはり、君は“聖女”だな、ユナ」
それは、皮肉でも賛美でもない。ただ、深く沁み入るような、敬意のこもった言葉だった。




