87.核
レイナの姿が扉の向こうへと消えてゆく。
その背を見送っていたユナが、ふと振り返った。
「……マナ……マナのところへ……行かないと」
その言葉に、アルヴァンが小さく頷く。
その顔に浮かぶのは、王としての冷静さと、娘を案じる母への静かな配慮だった。
「……行ってやってくれ、ユナ。君にとって――何よりも大切な存在だろう」
声は静かだったが、そこに迷いはなかった。
ユナは深く頷くと、裾を翻して走り出した。
その後に続いて、セトとルカも黙って駆け出していく。
ユナたちが去ったあと、アルヴァンはひとり、大きく息を吐いた。
脳裏をかすめるのは、リリアナの言葉――
(お父様、いえ、本当のお父様ではありませんでしたわね)
その一言が、何よりも鋭く心をえぐった。
だが今は、立ち止まっている時ではない。
「……ロドリグ」
傍に控えていた近衛兵の名を呼ぶ。
「カリオンとアーヴェルトを、直ちに地下の牢へ移送しろ。
王家と国家を欺き、敵国と通じていたその罪は重い。絶対に逃がすな」
「はっ!」
「それから――」
アルヴァンはその場を見渡し、三人の神官長に鋭い視線を向けた。
「オズマ、イリナ、ベルン。見ての通り、“黒帝ヴァルザ”の復活は、未完成ながらも現実のものとなった」
重苦しい沈黙が場を包む中、オズマが低く唸るように言った。
「……まさか、再びその名が現れるとは」
アルヴァンは頷き、冷静な声で続けた。
「ヴァルザの瘴気に誘われ、魔物たちが再び活性化する恐れがある。
そして結界石の力が衰えている今、かつてのようにこの国を覆う結界に“ひずみ”が生じ、外から魔物が侵入してくるかもしれない」
彼の声に、緊張が高まる。
「それぞれの神殿は、その管轄する領域において、変調の有無をただちに確認し、異変があれば即座に報告せよ。
いずれの異変も、ヴァルザと関係している可能性がある。神殿間の連携を密にし、この国の守りを崩すな」
三人の神官長は、力強く一礼した。
その姿に、アルヴァンは深くうなずいた。
命じながらも、彼の眼差しはどこまでも鋭く、冷静だった。
王としての本分――“国を守る”という責務が、いま彼の背に、重くのしかかっていた。
(リリアナが誰の子であれ、あの子は……私が守らなければならない。王として、そして父として)
その決意に、揺らぎはなかった。
* * *
一方、神殿の私室――聖女マナの部屋。
扉が乱暴に開かれた。
「マナ!」
駆け込んできたユナの姿に、マナとリリーは同時に振り向いた。
昼下がりの光の中、部屋には穏やかな空気が流れていた。
「……お母さん? セト様に、ルカ様まで……どうしたんですか?」
きょとんとした顔で問いかけるマナ。
その隣でリリーも小首を傾げている。
ユナは何も言わず、マナを抱きしめた。
「よかった……無事で……」
胸元に抱き寄せたマナの温もりに、ユナの手がかすかに震える。
マナも驚いたように息を飲んだが、そっとユナの背に手を回した。
「お母さん……?」
セトが小さく息を吐き、胸に手を当てて言った。
「マナ、君が無事でいてくれて、本当に良かった」
ルカも目を伏せ、ほっとした表情を浮かべた。
しかし、まだマナの表情には困惑が浮かんでいた。
「……一体、何が起きたんですか?」
* * *
王城の応接室。
ユナ、マナ、アルヴァン、ルカ、セトの五人が静かに席についていた。
他の神官長たちは、すでに王命に従い各方面への連絡に奔走している。
状況のすべてを聞き終えたマナは、胸の前で手を組み、うつむいていた。
「そんな……リリアナ様が……ヴァルザに……」
リリアナが自分に何をしてきたのか、忘れたわけではない。
けれど――その時の様子を聞いたとき、心のどこかが、ひどく痛んだ。
誰かに愛されたかった。
ただ、それだけの想いが、どれほどの渇きだったのだろう。
そんなリリアナの心に巣食うようにして、ヴァルザは入り込んだ。
そっと胸元に手を当てたマナの顔には、哀しみと、戸惑いが入り混じっていた。
「でも……」
マナがゆっくりと顔を上げる。
「なぜ……ヴァルザが? お母さんが昔倒したって……それに、なぜ私の魂を狙っているんですか?」
その言葉に、場の空気がわずかに張り詰めた。
「……確かに、それは私も気になっていました」
セトが椅子から身を乗り出すようにして言った。
「たしかにヴァルザは以前ユナ様が命をかけて封じたはず。
それに、あのときヴァルザは……“君が分け与えたその魂と、そこに宿る核”……と言っていた、これはユナ様の魂の一部がマナの中にあるということでしょうか?」
彼の視線が、ゆっくりとユナに向けられる。
「ユナ様。……一体、どういうことなのですか?」
ユナは、わずかに言葉を飲み込む。
そのまま目を伏せ、指先を組むようにして静かに黙った。
ルカも黙っていたが、瞳だけがユナをじっと見ていた。
「ユナ」
アルヴァンは静かに、ユナへと視線を向けた。
その眼差しには、王としての威厳ではなく、一人の男としての深い悔いと痛みが宿っていた。
「……君が“サクラ”として、命を賭してヴァルザを封じた。
魂に“核”を封じ、自らを消した――その出来事は、今も“あのときの真実”として語られている。
私も……ずっと、そう信じていた。
君は国を、皆を守るために、それしか選べなかったのだと」
言葉を切り、わずかに伏せた目に影が落ちる。
「けれど……違った。
最近になって、カリオンの口から真実を聞いた。
本当は、“命をかけずとも封印する術”は存在していた。
なのに、それは意図的に伏せられていた――君をその場から排除するために、だ」
拳がゆっくりと膝の上で握られる。
「君は、裏切られていた。
信じていた者に欺かれて、追い詰められて……あの戦いの果てに、自らを消すしかなかったんだ。
あのとき、私は……何も気づけなかった。
君が一人で全てを背負い、姿を消したその瞬間まで……私は、何も――」
かすかに震える声が、悔しさをにじませる。
だが、次に続く声には、確かな意志が宿っていた。
「だが今は違う。
君がこうして生きていること。
そして……“聖女マナの魂に君の魂の一部が宿っている”という事実――」
アルヴァンはユナの瞳をまっすぐに見つめる。
「ユナ。
その真実を……君の口から、教えてほしい。
この国の未来のために。そして、何より――君自身のために」
ユナは小さく息を吸い、そっと瞳を閉じた。
その胸奥に沈めてきた想いを、慎重に、言葉へと変えてゆく。
「……ある時、マナに命の危険が迫ったことがあったの。
私は……マナを救うために、自分の魂を半分、この子に渡したのよ」
静かな声だったが、その響きには決意が滲んでいた。
「けれど――私の魂には、すでに“ヴァルザの核”が封じられていた。
だから……その時、魂と共に、“核”もマナの中へ融合されてしまったの」
場の空気が凍りついたように静まり返る。
セトが、ゆっくりと顔を上げて言った。
「……マナの命を救うために、ユナ様の魂を……。
しかし、ヴァルザの核がユナ様とマナ、ふたりの魂に封じられているとすれば、……なぜ“あの存在”が、リリアナ様を操ることができるのでしょう? そもそもヴァルザは十数年前、あなたによって完全に封じられたはずですよね?」
その疑問は当然だった。
聖女サクラの封印が成功して、核が全て封じられているのなら、ヴァルザが復活するはずがなかった。
ユナは、深く息をつきながら、過去を手繰るように言葉を続けた。
「……私は、ヴァルザを封じたとき――封印の理を、歪めてしまったの。
本来の正しい方法ではなく、間違った方法で意図せず封印してしまった……」
苦悩の色が、その表情にわずかに浮かぶ。
「それによって……封印の一部が乱れ、わずかに零れた“欠片”が、この世界に残ってしまったのかもしれない。
長い年月の中で、それは少しずつ力を取り戻し……リリアナの心の隙に入り込み、再び私たちの目の前に現れた」
セトとルカが、無言で頷く。
確証こそないが、すべての現象を説明できる“答え”に、彼らは直感的に納得していた。
「……それが、リリアナ様に取り憑いた“ヴァルザの声”の正体……」
ユナは静かに頷いた。
「ええ……。もしかしたら、ずっと前から……私たちのすぐ傍で、機会を伺っていたのかもしれない」
その声には、母として、聖女として、ひとつの過去を背負ってきた者だけが持つ、深い静けさが宿っていた。




