86.綻び
「……封印が……解けた……?」
ユナの声は、震える吐息のようにこぼれた。
(そんなはずはない。ヴァルザの核は……あのとき、確かに、私の魂に――)
脳裏に蘇るのは、あの最終決戦の光景。あれを封じるために、どれほどの祈りと決意を重ねたか――
(でも……もし、あの封印の理を歪めてしまったせいで、こんな形で現れているのだとしたら――)
胸の奥で、ひび割れたような痛みが走る。リリアナを覆う魔力は、もはや“闇”そのものだった。禍々しく、凶暴で、息をするだけで肺が蝕まれるような、あの瘴気――
「結界を張れ!」
ルカの鋭い声が響いた。
「急げ、セト!」
「……了解!」
ふたりの神官長が同時に印を結び、聖句を紡ぐ。光が交差し、空気に魔法陣が浮かび上がる。しかし――
「ぐっ……! 押される……!?」
まるで重しを乗せられたように、結界が歪み始めた。闇がじわじわと侵食していく。
「ユナ、下がるんだ!」
ルカが叫ぶ。
だがユナは一歩も動かなかった。
(私が……止めなければ)
そう思った瞬間――
ふっと、リリアナの姿が揺らいだかと思えば、その影はまるで疾風のごとくユナに迫る。
「ユナッ!」
アルヴァンが剣を抜き、二人の間に割って入った。
「待つんだリリアナ!」
リリアナはにやりと笑った。
「お父様、いえ、本当のお父様ではありませんでしたわね。……もう遅いのです」
その手には、いつの間にか――ユナの手から奪われた、銀の珠。儀聖の器があった。
「やめなさい、その器は――!」
だが、その叫びも間に合わなかった。
リリアナはその器を、高く掲げ――
「こんなもの……いらない」
ぐしゃり、と。
まるで脆いガラス細工を潰すように、銀の器はリリアナの手の中で粉々に砕け散った。
「――ッ!!」
辺りに閃光が走る。
爆ぜるように広がる聖なる魔力。空気を切り裂き、強烈な光の奔流がリリアナの身体を包み――
「……あっ……」
その一瞬、リリアナの瞳に、光が戻った。
「リリアナ!」
ユナが駆け寄ろうとする。
「正気を――正気を保ってください! あなたは、魔に――魔物に支配されようとしている……!」
セトの声が届く。
リリアナが、かすかに震えながら、セトに目を向けた。
「……セト……様……わたくし……」
だが――その目が、ふたたび黒に染まりゆく。
「……ふふ、ふふふふっ」
笑い声が漏れた。
「もう……もう誰にも、わたくしを傷つけさせはしません」
闇が再び彼女の身体から吹き出す。滲む闇が空気を震わせる。
ユナが一歩、前に進んだ。
「……黒帝ヴァルザ。あなたね……リリアナの中にいるのは……!」
その名を口にした瞬間、場の空気が凍りついた。
「……ヴァルザ、だと……」
ディアマ神殿の神官長・オズマが低く呟く。
「それが事実ならば……この国にとって、未曾有の脅威だ」
「黒帝……!? まさか、あの魔王が――リリアナ王女の中に……?」
ザカリア宰相が目を見開き、信じがたいものを見るようにユナとリリアナを見比べる。
ざわめきが広がる。
その中で、リリアナが、ユナの方へと顔を向けた。
その笑みは、もはや彼女のものではなかった。
「さすがは、聖女。気づいたか……」
その声は――ふたつに重なっていた。
リリアナの声と、そしてもう一つ、底知れぬ闇を孕んだ、どこまでも冷たい声。
「……君のすべてを、飲み込んであげよう。今度こそ――完璧にな」
その瞬間、リリアナの身体から、濁流のような魔力が放たれる。
禍々しく歪んだ空気が吹き荒れ、王城の石床がひび割れた。
「くっ……この魔力……!」
ルカが身構え、印を結ぶ。
リリアナの身体から放たれたそれは、蛇のようにうねりながら、ユナへと迫る。
(……来る)
肉体ではない。狙われているのは、魂――
あの封印されし核を宿す、彼女の内なる場所。
ユナは、ただ静かに目を閉じた。足元で、聖なる光が膨れ上がる。
身じろぎもせず、恐れも拒絶もなかった。
彼女の中に灯るものが、静かに――けれど確かに、熱を帯びてゆく。
次の瞬間、光があふれた。
音もなく、暴風のように。
けれどそれは、破壊ではない。
浄めるように、裁くように、すべての闇を包み込みながら、世界を塗り替えていく。
ユナを中心に放たれたその輝きは、まるで意思を持つかのように闇を引き裂き、
寄せつけようとする“それ”を拒絶し、焼き払い――
「ッ……ぐ、ぅ……!」
リリアナの身体が仰け反った。
その唇から漏れる声は、苦悶と怒気の入り混じったものだった。
「……なるほど……やはり、その光には……触れられないか」
その声は、低く、静かで――それゆえに、ぞっとするほど冷たかった。
リリアナの唇がゆっくりと動く。
その瞳は黒に染まりきり、もはや彼女のものではなかった。
「だが、手段はひとつではない」
リリアナの身体がふわりと宙に浮かび、宙の中心にゆらりと立つ。
闇がその周囲にまとわりつき、まるで“魔”が彼女の姿を模して立っているかのようだった。
「……君に手を出せないのなら……私は、こちらをいただくとしよう」
言葉と同時に、リリアナの身体がぴくりと痙攣する。
「やめなさい!」
ユナが叫ぶ。
だが、ヴァルザはゆるやかに首を振った。
「この身体――可哀そうな器だな。
周囲の期待に縛られ、母の道具として育てられ、父には見捨てられ、神にも選ばれなかった。
けれど、今はこうして“私”の依代としてようやく意味を持った」
その口調は静かで、悪意も皮肉もない。
ただ、冷徹な事実を確認するかのように。
「この身体は、もう“私”のものだ。だが――返してやってもいい」
「……何を……」
ユナの声が、震えた。
「交換だよ、聖女。いや……“かつての”聖女サクラ」
そして、ヴァルザは嗤った。
「君の大切な“娘”の魂を寄越せば、この身体は返してやろう。
君が分け与えたその魂と、そこに宿る私の核――それを、こちらへ差し出せば、な」
「……ッ!」
その言葉に、場の空気が凍りつく。
誰よりも、ルカが一歩前に出ようとした――が、ユナがそれを止めるように手を挙げた。
「その条件を、よく考えることだな。さあ……どちらを切り捨てる?」
リリアナの顔が、淡く笑みを浮かべたまま、闇に飲まれていく。
「返事は……また来る時に聞こう」
次の瞬間、リリアナの身体が霧のように溶けて消えた。
そこには、黒の余韻と、鈍い焦げ臭さだけが残された。
「リリアナ……! やめて、戻ってきて……!」
レイナの声が掠れた。
その姿は、リリアナが消えた場所へ駆け寄るも、ただその場に崩れ落ちるだけだった。
涙に濡れた瞳で床を這い、銀の粉となって消えた“器”のかけらを、震える手でかき集めようとする。
「……リリアナ……ごめんなさい、ごめんなさい……」
だが、誰の手も、その影をもう止めることはできなかった。
ユナは立ち尽くしたまま、拳を握りしめた。
指先に爪が食い込んでも、胸の奥に渦巻く葛藤は消えてくれなかった。
(リリアナを救うには、マナを――あの子を差し出せと……? 私の娘を? この手で?)
心の奥で何かがきしんだ。声にならない叫びが胸を打ち、息が詰まりそうになる。
それでもユナは、ゆっくりと顔を上げた。迷いはある。けれど、諦めるにはまだ早すぎる。
――そのとき。
「そうよ……そうなのよ……」
絞り出すような声が、部屋の隅から響いた。
レイナだった。髪は乱れ、瞳は焦点を失っている。
「リリアナはこの国の王女なのよ……王族の血を引く、唯一の王女なのよ……! あの子を助けるために、あなたの娘を差し出しなさい! そうすれば――それで済むなら、それで――!」
「――いい加減にしろ、レイナ!! リリアナが……王族の血を引いていないことは、もうお前自身が知っているはずだ!
それでもまだ“王女”だと? そのためにマナを差し出せと? ……自分の罪にどこまで目を逸らす気だ!
リリアナを“王女”に仕立て上げたのは、誰のためだった!? その嘘で、この国をどれだけ欺いてきたと――
お前がリリアナを心配する気持ちは痛いほど分かる、私もあの子を本当の娘だと思い、今まで大切に育てて来た。
私は……リリアナを見捨てるつもりはない。
だがそのために、誰かの命を踏みにじっていい理由にはならない!」
レイナは振り返り、苦しげに顔を歪めた。
「言うと思った……いくら血が繋がっていないと知ったからって! あの子の命なんて、もうどうでもいいというのね……! やっぱり……あなたは冷たい人よ!」
「……レイナ」
ユナが、一歩、前に出る。
その声は静かで、揺るがなかった。
「落ち着いて聞いて、リリアナはまだ引き返せる。私はまだ……マナの命も、リリアナの命も、諦めていない。
だからあなたも――自暴自棄にならないで」
そっと、ユナは手を差し出した。
だがその手は、レイナに強く振り払われた。
「そんなことを言って……! また、また私から……奪うつもりなんでしょう! 今度は、あの子まで……ッ!」
完全に錯乱しかけたその気配に、セトがすかさず印を結ぶ。
その手から放たれたのは、穏やかな鎮静の光。
レイナの動きがぴたりと止まり、呼吸が浅くなっていく。
その場に膝をつき、うわ言のようにリリアナの名前を繰り返しつぶやいている。
「申し訳ありません。今は――時間がありません」
セトは冷静に言い放った。
「マナ様の無事を、一刻も早く確かめるべきです」
「……ああ」
アルヴァンが短く頷き、近衛兵の方へと視線を向ける。
「レイナを……連れていけ。しばらく、部屋で休ませろ」
「はっ」
兵がレイナの両肩に手を添え、静かに連れて行こうとする。
レイナは虚ろな目で振り返ったが、もはや声は出なかった。
ユナはただ、その背を黙って見送った。
心の奥で、まだ燃え残る炎のように――迷いと祈りが、静かに揺れていた。




