83.真実の手前で
――数日後、王の命により、レイナ・グランディアとの婚姻解消が正式に公布された。
王宮重臣と神殿代表の立ち合いのもと、儀礼的な手続きは粛々と進められ、十数年にわたる王妃の座は、静かに終止符を打った。
王と元聖女の密な関係を憶測する噂は、夜会に集っていた貴族たちの口から、あちこちへと広がっていた。
「“王は聖女に心を奪われた”だなんて……どうして、ああも飽きもせず面白がれるのかしら……」
マナには、もう一度改めて説明した。
“アルヴァン陛下とは、何もない”と。
けれど、心の奥に沈殿した澱は、簡単には晴れてくれなかった。
そんな午後。
ユナが静かに文書に目を通していたそのとき――扉の外から、控えの者の声が響いた。
「陛下が、お見えです」
その声に、ユナが顔を上げる間もなく、扉が開かれる。
現れたのは、王の装束ではないアルヴァンだった。
漆黒に近い深い藍の上衣に、同じ色合いの外套をまとったその姿は、凛とした静けさを纏っていた。
その姿を目にした瞬間――ユナの胸に、かすかなざわめきが走る。
けれど、次の瞬間だった。
廊下の奥から、早足の足音が近づいてくる。
小さく息を整える気配とともに、扉の前に現れたのは――ルカだった。
その姿を見て、ユナも思わず目を見開く。
彼は一歩、静かにアルヴァンの傍らへと進み出ると、低く、けれど確かな声で言葉を放った。
「……ご無礼を承知で申し上げます。
今、ただでさえ噂が広がっております。
そのような中、従者もつけず、こうして直接ユナ様の部屋を訪れられるのは――いかがなものでしょうか」
その声音には、礼を失わぬ誠実さと、秘めた焦燥が滲んでいた。
しかし、アルヴァンは目を逸らさず答えた。
「……噂など、どうでもいい。私は、ユナと話さなければならない。
それが今でなければならない理由が、ある」
ルカは一瞬だけ視線を落とし、やがて静かに告げる。
「――では、私も同席いたします。
誤解の火種をこれ以上増やさぬためにも」
ユナはその言葉に目を伏せて、少し考える素振りを見せた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「……ええ。そのほうが、きっといいわ」
アルヴァンは一瞬、何かを迷うようにユナを見つめたが、すぐに頷いた。
こうして、三人は部屋の奥へと進み、重たい扉が静かに閉じられた。
柔らかな午後の光が、机上の文書に残るまま、空気はぴたりと張りつめていた――。
ユナの部屋には、重たい沈黙が落ちていたが――その静寂を破ったのは、アルヴァンの低く落ち着いた声だった。
「……話したいのは、これのことだ」
ユナとルカの視線が向けられる。
アルヴァンは懐に手を入れ、そっとひとつの珠を取り出した。銀の光を湛えたそれは、まるで心臓のようにかすかな脈動を感じさせた。
「儀聖の器……あの夜、レイナの言動から確信した。これの持ち主は、彼女だ」
ルカが目を細める。
「……儀聖の器?」
アルヴァンは無言でそれをルカの前に差し出した。
珠を見つめたルカの表情に、驚きと畏敬が同時に浮かぶ。
「これは……驚くほど神聖な力が宿っている。
まるで、封印に用いられる高位の聖具……。
これが、あの夜会でレイナ様がおっしゃっていた“大切な物”ですか?」
「ああ。これはユナが、カリオンの執務室にある“隠し部屋”で見つけたものだ」
視線を受け取るように、ユナが一歩前に出た。
瞳は静かに珠を見つめ、言葉を紡ぐ。
「……この珠の中に込められているのは、かつて私が“結界石”に捧げた聖なる魔力。
結界石の力が衰えはじめたのは、レイナ様が……この珠に力を移し替えていたから。
その痕跡が、はっきりと感じられるの」
ルカの表情が一瞬凍りつく。
「それが……本当なら……
この国を護ってきた結界は……レイナ様の手で、崩れようとしているということに……?」
その問いに、アルヴァンは静かに頷いた。
「結界が崩れれば、神の加護も揺らぐ。
これは、王妃の立場をもってしても――許されることではない。
数日後、レイナは王宮を離れることになる。その前に、彼女の罪を明らかにする場を設ける。
五大神殿の神官長と、そして……ユナ、君も出席してくれ」
二人は無言で頷いた。
だが、ルカはそのまま、ぽつりとこぼすように呟いた。
「……レイナ様は……一体、何のために……」
答えはなかった。けれど、ユナの胸には、レイナの胸奥に潜む執念がうっすらとよぎっていた。
ふと、アルヴァンがユナに向き直る。
その瞳は、どこか躊躇いを含みながらも、真っ直ぐだった。
「……ユナ。あの夜会の日以来、君と私にまつわる噂が広まっている。
それは……私の行動が原因だ。感情に任せて動いた結果、君に迷惑をかけてしまった。……すまない」
ユナは少しだけ眉を寄せ、静かに首を振る。
「いえ。あの日、陛下を部屋にお招きしたのは私です。
ですから……誤解を招いた責任は、私にもあります。本当に……申し訳ありません」
そのやり取りの間、ルカは一言も口を挟まず、ただ静かに立っていた。
拳がわずかに震えていたが、それに気づいた者はいなかった。
しばしの沈黙ののち――
アルヴァンがちらりとルカに目をやり、それからもう一度ユナに向き直った。
「……もう、見て見ぬふりはできないと思ったんだ」
アルヴァンの声は低く、どこか痛みを滲ませていた。
「レイナに“王妃”の座を与えたのは、私だ。
だが、私は彼女を愛することなく、ただ“王の義務”として隣に据えた。
彼女の心に触れようともせず、夫婦の形だけを保ち続けて……それで、王家の体面は保てると、思い込んでいた」
ユナはそっと目を伏せた。
ルカの指先が、ほんのわずかに動いたのが視界の端に映る。
アルヴァンは目を伏せる。
「リリアナを王女として大切にしながらも、どこかで“責任”という言葉に逃げていた。
レイナを愛することはできなかった。けれど、その代わりに“立場”と“役割”を与えていれば、それで赦されると――そう思っていたんだ」
静かに息を吐き出す。
「本当はわかっていた。それでは、何も伝わらない。
愛されないまま、ただ“王妃であれ”と命じられることが、どれだけ残酷だったか……
彼女をああまで追い詰めたのは、私自身だったんだ。
しかし……たとえ、どんな理由があろうとも――
レイナが“儀聖の器”を用いて結界石の力を奪ったことは、この国の根幹を揺るがす大罪だ。
神の加護を、国民の祈りを、偽りで汚したその行いを……私は、王として必ず暴く」
言葉には、迷いのない確信が宿っていた。
そして、続く声はさらに低く、静かに――けれど確かに揺るがぬ意志を込めて。
「だが……それだけでは終わらせない。
彼女を追い詰めたのが、王であるこの私だったのなら――
私は、自らの罪もまた、逃げずに償わなければならない。
正しさを語る前に、自分がどれだけ歪んでいたかを、誰よりも自分が知っている。
だからこそ……逃げるわけにはいかない」
そう言ったアルヴァンの声は、ただ静かで、真実を見つめる者の重みだけがあった。
ユナはゆっくりと顔を上げ、その目でまっすぐに彼を見つめた。
「……陛下がそう仰るなら、私は力を尽くします。
でも――これは、過去の償いのためだけに向き合うものではないはずです。
真実を明らかにしようとするその先には、必ず“守るべき誰か”がいる。
私は、それを忘れたくないのです」
その声は穏やかだったが、かつて世界を救った“聖女サクラ”としての、深く静かな気高さが滲んでいた。
その言葉に、アルヴァンはわずかに目を見開いた。
――“誰かの未来”。
その響きが、彼の胸の奥に沈んでいたひとつの名を、否応なく呼び起こす。
(リリアナ……)
どれほど形だけの家族だったとしても――
リリアナを“王女”として育ててきた年月は、紛れもない現実だ。
(あの子の笑顔も、声も、そばにあった日々も……すべて幻だったわけじゃない)
レイナとの関係が冷えていく中で、次第に言葉を交わす機会は減り、
いつの間にか、娘のことをレイナに任せきりにしていた。
そうして背を向けたのは、自分のほうだったのに。
(その未来までも……この“裁き”の中で、切り捨ててしまっていいのか)
ふいに、アルヴァンは目を伏せ、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうだな。君の言うとおりだ。
過去だけを見るのではなく……これから先に、目を向けなければならない。
たとえどんなに苦しい道でも……守るべきものがある限り、前へ進むべきだと――今、やっとわかった気がする」
ルカは、その横顔をじっと見つめていた。
口を開きかけて、しかし言葉を飲み込む。
彼もまた、心の奥に、同じ“名前”を浮かべていたのだ。
(あの少女も……また、被害者なのかもしれない)
聖女を偽った罪、嘘を重ねた罪。
けれど――リリアナ自身は、それを本当に望んでいたのか?
ユナの言葉は、そんな問いをそっと胸に差し込んでくる。
三人の間に言葉はなかった。
ただ、午後の光だけが静かに差し込み、沈黙の中に、それぞれの想いだけが揺れていた。
――その空気を破ったのは、扉の外から響いた、早足の気配だった。
「陛下、失礼いたします!」
扉がわずかに開き、近衛騎士の一人が身をかがめて現れた。
「……急ぎ、お耳に入れたいことがございます。至急、お時間をいただけますでしょうか」
その声音には、ただならぬ緊迫が滲んでいた。
アルヴァンが振り返る。
瞬間、部屋の空気が微かに張りつめる。
「……わかった。すぐに向かおう」
短く返した声には、王としての静かな威厳が戻っていた。
再び扉が閉まる音が響いたとき――
ユナは、微かに目を伏せた。
胸の奥に、言葉にできないざわめきが、静かに芽吹いていた。




