82.月だけが
夜会の混乱が静まり、王城の大広間には余韻だけが残っていた。
重たい扉が閉ざされたその直後、マナが足音も荒く、ユナのもとへ駆け寄ってきた。
「お母さん……!」
その瞳には、まだ消えぬ驚きと戸惑いが揺れていた。
「さっき……レイナ様が言ってたこと……本当なの? アルヴァン陛下の、元婚約者だったって――」
ユナは、ほんの少しだけ目を伏せて、ゆっくりと頷いた。
「……ええ。そうよ。昔、私は陛下と婚約していたの。けれど、それはずっと昔のことよ」
マナは小さく
「そっか……」
と呟いたあと、ぎこちなく視線をそらした。
「みんな何も言ってくれないから……私、何も知らなかった。でも、さっきのレイナ様の言葉……お母さん、もしかして……まだ、陛下と……その……」
言いにくそうに口ごもるマナに、ユナはそっと首を振った。
「いいえ。今の陛下は家族を持つ身、私にも大切なマナがいるわ。
レイナ様がおっしゃったようなことは、何もないわ」
マナは少しだけホッとしたような顔をした。
「そうなんだ……よかった。
――ううん、きっとそうだよね。お母さんがそんなことするはずないもん」
その言葉に、ユナの胸がほんの少しだけチクッと痛んだ。
マナの信頼が、優しくも重たく心に刺さる。
「……でもね、マナ。誤解されるような行動をとってしまった私にも、責任はあるの。
レイナ様が怒るのも、無理のないことかもしれないわ……」
そう言いながら、ユナの心の奥に浮かぶのは、さっき――
あの銀の珠を「自分のもの」だと言い放った、あのレイナの顔。
(レイナ……あの珠があなたの物だということは――自ら重大な罪を告白したも同じ。なのに……)
その思いは、静かな哀しみとなってユナの表情に影を落とした。
「お母さん……?」
心配そうにマナが覗き込む。
「……ごめんなさい。王城の控室に、置き忘れたものがあるの。神殿に帰る前に取りに行くわ」
マナが不安そうに眉をひそめる。
ユナはそんなマナにやわらかく微笑んでみせると、マナの後ろに控えていたセトに声を掛ける。
「セト、マナを部屋まで送ってもらっていいかしら?」
セトは一礼しながら、静かに答えた。
「もちろんです、ユナ様。さあ、マナ行きましょう、お部屋まで送ります」
ユナがマナの背をそっと押すと、少女は名残惜しそうに振り返りながらも、セトとともにその場を後にした。
――そして。
誰もいなくなった王城の中庭。
月の光が、石畳と芝生の上に淡い光のベールを広げていた。
その中を、ユナは静かに一人歩いていた。
少し冷たい夜風が、頬を撫でていく。
「……どうかしたのか?」
背後から低く、けれど優しい声が届いた。
振り返ると、そこにいたのは――ルカだった。
ユナは、少し驚いたように目を見開き、それから……ほっとしたように微笑んだ。
ルカがゆっくりと歩み寄る。
「……頬、腫れてるな」
そっと、指先がユナの左頬に触れる。
その温もりにユナが驚くより先に、ルカの方がはっとしたように手を引っ込めた。
「……すまない」
「……いいの。もう、痛くないわ」
ユナは微笑んでみせたが、その微笑にはどこか沈んだ影があった。
そんなユナの様子を見て、ルカが問いかける。
「……さっきのこと、気にしてるのか? 陛下とのこと……事実じゃないんだろう?」
ユナは少し目を伏せて、ゆっくりと口を開いた。
「……先日の夜……あなたと街で食事をとったあと、神殿に戻ったら……部屋の前に、陛下がいらしたの」
その言葉に、ルカの目が微かに揺れた。
「……そのとき、何かあったのか?」
ユナは、返事をせずにしばらく黙って立ち尽くす。
「……まだ、あの人のことを――愛しているのか?」
その問いに、ユナはわずかに肩を揺らし、そしてゆっくりと顔を上げた。
月の光が、淡くその頬を照らし、潤んだ瞳がルカの視線をまっすぐに受け止める。
「私は……今でも、アルヴァンのことを愛しているわ」
震える声だった。けれど、迷いのない声だった。
「ずっと、記憶を失っていたときでさえ……きっと、心の奥には彼がいたの。
思い出せなくても――“愛していた”という想いだけは、消えずに残っていた。
だから、マナの父親が誰か分からなくても……その人を、愛しているのだと確信できた。
私は……そう信じて、あの子を育ててきたの……」
ルカの表情が、わずかにこわばった。
沈黙のなかに、一瞬、呼吸すら止まったような時間が流れる。
「……マナは――あの人の子なのか?」
ユナの瞳が見開かれた。はっとして口元を覆う。
「ルカ……違う、違うわ、今のは……」
焦るように否定する彼女に、ルカはそっと肩に手を置き、優しく、けれど逃さぬように言った。
「マナは……アルヴァン陛下との子なんだな?」
ユナの瞳から、ついに涙が溢れた。
その一滴が頬を伝い、静かに夜の空気に消えていく。
「……だめね、私。あなたには気が緩んでしまって……
本当は、誰にも告げるつもりはなかったのに……」
言葉を紡ぎながら、ユナは涙に濡れた瞳でルカを見た。
「そうよ。マナは、アルヴァンの子。
でも……そのことを、彼に伝えるつもりはないの。……真実を知れば、彼は責任を果たそうとするでしょう。
けれど……それは、彼の“今”を揺るがせてしまう。私は、そんな未来を望んでいないの。どうか、忘れて。お願い、ルカ……」
「どうして……!」
ルカの叫びが、月夜に響く。
けれど、ユナの瞳に宿る決意を見た瞬間――彼は、それ以上言葉を飲み込んだ。
「私は十数年前……あのヴァルザ封印のときに、過ちを犯したの。
そのせいで、マナの人生も、アルヴァンの人生も、歪めてしまった。
それなのに今度は……あの人が築いた家族の中に、影を落としてしまった」
ユナは顔を伏せ、悔しげに唇を噛み締めた。
「私がこの世界に、再び現れさえしなければ、レイナがアルヴァンとの婚姻を、解消するだなんて言い出すこともなかったのよ……」
「それは違う」
ルカの声は落ち着いていたが、否定は揺るぎなかった。
「陛下と王妃の不仲は……ノエリアの神殿にまで噂が届くほど、今や誰もが知ることだ。
それは、もうずっと前から、二人の間に横たわっていた溝だよ。
それを、お前が現れたせいだなんて……そんなふうに思う必要はない。
――ユナ。誰かの過去の綻びを、自分の罪にすることはない」
ユナはかすかに首を振り、微笑んだ。寂しさを湛えたその微笑に、ルカは胸を締めつけられる。
「ありがとう……ルカ。
それでも再会によってアルヴァンの心が揺れたのは、事実。
そして、一番つらい思いをしているのは、リリアナよ。
あの子は、娘として、家族として、きっと私の存在に心を引き裂かれている。
母親という立場にいながら……私は、あの子を苦しめている自分を、どうしても許せないの」
ユナの瞳から、またひとしずく、涙がこぼれ落ちた。
「だから――マナのことはアルヴァンには告げない。
そして……あの頃のように、彼と寄り添うことも、ないわ」
その言葉に、ルカの心の奥で、何かが静かに崩れた。
けれど――同時に、何かが目覚めた。
気づけば、彼の腕は自然とユナの細い身体を抱きしめていた。
「だったら――結界石の件が片付いたら……」
耳元に、低く、熱を孕んだ声が囁かれる。
「……俺が、お前をノエリアに連れて帰る。
この手で、すべてから連れ出してやる」
ユナの瞳が見開かれた。
「ルカ……?」
「お前を……愛してる」
その声は、切実で、まっすぐだった。
痛いほどに抱きしめられ、ユナはどうしていいか分からずに胸が震える。
「……出会ってから、少しずつ惹かれていった。
でも――お前は、あの“聖女サクラ”だ。
ただの神官長の俺じゃ……どうこうできる相手じゃないと思ってた。
気持ちを伝えるつもりなんて、最初からなかったんだ」
それでも――と、ルカは熱を帯びた目でユナを見つめる。
「そんなこと、もうどうでもいい。
ユナが……お前が、陛下のそばでつらい想いをし続けるくらいなら――
俺が、さらっていく!」
その一言が、夜空に響いたとき――
月は雲間から顔を覗かせ、ユナの頬を濡らす涙を、白金に輝かせた。




