81.崩壊の始まり
振り返った招待客たちの視線の先、怒気を帯びた気配をまといながら、深紅のドレスを纏ったレイナが、まっすぐに壇上を見据えて歩み入ってきた。
「ユナ!」
その鋭い声に、場が静まり返る。
「あなたが奪ったものを返しなさい!」
壇を下りていたユナは、立ち止まり、困惑の表情でレイナを見つめた。
「……奪った、もの……? 何のことをおっしゃっているのですか、レイナ様」
感情のままに駆け寄ったレイナは、振りかぶった手でユナの頬を打ちつけた。
鋭い音が空気を裂き、場内にざわめきが走る。
「やめてください!」
マナが間に入ろうとするが、ユナがそっとその手を制する。
「レイナ様……どうか、少し落ち着いてください。人の目もございます。何か誤解されているようでしたら、別の場所で話しましょう――」
「黙りなさい! ……偽聖の器を、あの銀の珠を返しなさい! あなたがカリオンの執務室から持ち去ったんでしょう!」
――銀の珠。
その言葉に、ユナははっとする。そして静かに、レイナの瞳を見つめ返した。
アルヴァンがわずかに眉を動かす。
ユナと視線が交わる――それだけで、互いの確信は静かに結ばれた。
「……そうですか。あれは、レイナ様の物だったのですね」
ユナの声は、落ち着いていた。
「ご安心ください。お返しいたします。ですから、どうかこのような公の場でご自分を失わないでください」
レイナの目が、わずかに揺れた。
普段なら、この程度の言葉であれば唇の端で笑い飛ばしていたはず――だが、今の彼女には、怒りが抑えきれないようだった。
(……なぜ、こんなにも苛立つの!? まるで……自分の内側で、知らない“声”が囁いているみたい――“あの女を許すな”と。怒りが渦を巻いて、胸の奥で暴れている……)
「やっぱり……あなたが持ち去ったのね……! 恥知らず! あなたはいつもそう――わたくしの大切なものを奪ってゆく!」
レイナの叫びに、会場の空気が揺らぐ。
「陛下まで……私の夫までも! あなたに心を奪われて……! どれだけ奪えば気が済むの!? 地位も、名誉も、そして――愛まで!!」
その言葉に、ざわめきが大きくなる。
レイナは場を見渡しながら、声を張り上げた。
「そうよ! 皆さん聞いて! この女は、私の夫であるアルヴァン陛下を、夜中に部屋に招き入れているのよ! 元婚約者とはいえ……! 私がどんな気持ちでそれを耐えてきたか……」
マナの顔色が変わる。
「お母さんが……アルヴァン陛下と……? しかも……元婚約者って……」
ユナは動揺するマナをかばうように一歩前に出て、後ろにいたリリアナの姿に目をやった。
無表情のまま立つリリアナの視線は、虚空をさまよっていた。
「レイナ様、何か誤解されているようですが、私と陛下は、あなたが思っておられるような関係ではございません。どうか……冷静になってください。マナも、リリアナ様も聞いています」
「……そうやって、冷静ぶって……わたくしを見下してるのね。気に食わないわ、ほんとうに……!」
レイナが今にも掴みかかろうとしたその瞬間――
「やめろ、レイナ」
低い声が響いた。
アルヴァンがゆっくりと歩み寄り、レイナとユナの間に割って入った。
「その女を……かばうのね」
「冷静になれと言っているんだ。この神聖な場でこれ以上騒ぐつもりか。皆が見ている」
レイナは唇を震わせ、そして――笑った。
「いいじゃありませんか。皆さんに――しっかり、聞いていただきましょう。
アルヴァン陛下はね、元婚約者であるこの女のことを、ずっと忘れられなかったんですのよ。
十数年ぶりに再会して――懐かしさと未練に火がついたんでしょうね。
若い頃の“聖女”が、年を重ねて少しばかり“しおらしく”なったら、それがまた陛下には新鮮に見えたのでしょう。
……なんと純粋で、なんと“信仰深い”御方。
かつての恋を、神の加護とやらで美化して――“再会の奇跡”と称するなんて。
本当に、陛下らしいわ。夢と現を履き違えるのがお得意ですもの」
嘲るような笑みを浮かべながら、レイナの声は冴え冴えと響いた。
言葉を紡げば紡ぐほど、胸の奥から怒りが湧き上がってくる。
(なぜ……こんなにも、癪に障るの? あの女の顔を見るだけで、吐き気がするほど憎らしい)
感情は、自分でも制御できなくなっていた。
ユナの落ち着いた瞳も、穏やかな声も、何ひとつしていないのに皆の関心を引きつけてしまう、その在り方そのものが――すべてが、苛立たしかった。
(そうよ……いつだってあの女はそう。黙って立っているだけで、人の心をかすめ取っていく)
理性の奥で警鐘が鳴っていた。けれど、それすらも打ち消すほどに、レイナの中の憤怒は膨れ上がっていた。
「ねえ、皆さんもお分かりでしょう? この女が現れてから、陛下の目が、わたくしを通り越して別の方向ばかり見るようになったこと。
いえ、あなたは元々わたくしを見てなどいませんでしたものね。
まさか十数年前の女に、今さら心を奪われるなんて……王であられるお方が、そんなにも情に脆いなんて……ほんとうに、滑稽ですわ」
吐き出すように言い放ち、レイナは冷たい笑みを浮かべた。
けれどその笑みの奥には、怒りという名の炎が渦巻いていた。
貴族たちがざわめき、数人の神官が言葉もなく俯く。
アルヴァンは黙したまま、レイナを見つめていた。
ユナもまた、何も言わずに視線を逸らさなかった。
静寂を破ったのは、ルカだった。
「……レイナ王妃。たとえ王妃であっても、これ以上の言葉は――この神聖なる聖女任命の儀に対する、不敬と見なさざるを得ません」
レイナはルカを振り返り、怒鳴るように言い返す。
「聖女への不敬……? それが何だというの? 私はこの国の王妃よ!」
しかし次の瞬間――レイナの唇がゆっくりと吊り上がった。
目の奥に浮かぶのは、勝者の余裕と、これまでにない解放感だった。
「でも……もういいわ。もう、そんな肩書きわたくしには必要ありませんわ」
そう口にした声は、勝ち誇るような響きを帯びていた。
「陛下、あなたの心が私に一度も向かなかったこと、もう知ってますのよ……もうこれ以上は耐えられません――
わたくしと、婚姻を解消してください!」
場内に、ざわめきが走る。
誰もが息を呑み、アルヴァンに視線を向けた。
だが――アルヴァンは意外なほど冷静な声で言った。
「レイナ……それは今、この場で話すべきことではない。場所を移して、話し合おう」
レイナは顔を上げたまま、じっとアルヴァンを見据えていた。
その瞳には迷いはなかった。
アルヴァンは全体を見渡し、厳かに口を開く。
「――これより、光冠の夜会は中止とする」
アルヴァンの厳かな声が広間に響いた瞬間、壇の脇から一歩進み出たのは、宰相ザカリア・ノースロウだった。
落ち着いた仕草で一礼した彼は、静かに口を開く。
「ご来賓の皆さま、陛下のご意向により、本日の夜会はここで終了といたします。混乱を避けるため、神官と近衛が順次ご案内いたしますので、どうかご協力を賜りますよう――」
その声には、動揺する場を静めるだけの力があった。
神官と近衛たちが動き始め、貴族たちは困惑しながらも従って会場を後にしていく。
その列の後方、ひときわ沈黙を貫いて歩く老貴族の姿があった。アーヴェルト侯爵――
娘がこの場で離縁を申し出ることは、彼にとって想定内だった。いや、それこそが彼の“切り札”だったのだ。
表情には一切の動揺はなく、ただ静かに顎を引き、会場の混乱を背に立ち去っていく。
その目は、すでにこの国の外――帝国の未来を見据えていた。
残ったのは、ただ冷えた空気と、言葉を失った人々の沈黙。
レイナはなおも背筋を伸ばし、わずかに唇を吊り上げたまま動かない。
その前に立つアルヴァンとユナもまた、終わらぬ夜の幕を見つめていた。




