84.器
そしてその数日後、レイナが王宮を去る朝。
城内奥部、重厚な扉に守られた審問の間には、既に主要な面々が顔を揃えていた。
中央の高座にはアルヴァン。 左右には五大神殿の神官長――セト、イリナ、オズマ、ベルン、ルカが列席している。 その一段下、玉座前にはユナとザカリア宰相が控え、静かに視線を向けていた。
そして、レイナが扉の奥からゆっくりと現れる。
かつての王妃衣装ではなく、深い葡萄色の外套をまとい、顔には気品の仮面を被っていた。
「――わたくしはもう、王宮を去る身です。今日ここへ連れてこられたのは、その女が奪ったわたくしの“大切な物”を返していただけるという話でしたわよね?」
その声音は淡々としていたが、内には激しい執念が渦巻いていた。
ユナは一歩、前に出る。
「あなたが言う“大切な物”とは……この銀の珠のことですね」
彼女が懐から取り出したのは、かつてカリオンの隠し部屋で見つけた銀色の珠。
内部には、結界石に捧げられたはずの魔力が脈打つように光を宿していた。
レイナの瞳が、一瞬でその光に吸い寄せられる。
「……返してちょうだい。それは、わたくしの物です」
「そうでしょうか?」
ユナは静かに問い返す。
「この珠は、あなたが個人的に所有するべきものではないはずです。私は――この中に、かつて自ら結界石に捧げた魔力の一部を感じています。……もしあなたが、この珠を使い結界石から力を奪っていたのだとしたら、それは、国そのものを脅かしていたということです」
「なっ……!」
レイナの表情が歪む。
「ふざけないで。何を根拠にそんなことを……! それは、祈りのために使っていただけのものよ!」
「では、その“祈り”は誰のためのものでしたか?」
神官長セトが、静かに問いを投げた。
レイナは答えず、ただ唇を噛みしめる。
ルカが立ち上がる。
「我々の調査では、あの珠が“偽聖の器”と呼ばれる魔道具である可能性が高いとされています。
それは古代に造られたとされ、他者や物に込められた魔力を吸い取り、蓄える力を持つもの。しかも、“無限に魔力を貯めることができる”という、常識を超えた性能を備えていたと伝わっています。
ただし、そうした記述が見られるのは、ごくわずかな古文書のみ。
これまでに実物が発見・確認されたという確かな記録は一切なく、長らく伝説上の存在――“失われた遺物”として語られてきました。」
レイナは動揺を隠しきれず、だが必死に顔を作って言い返す。
「失われた遺物ですって? そんなこと言われても、わたくしには分かりませんわ。その珠にそんなたいそうな力があるなんて……憶測で断じるのは早計ではなくて?」
アルヴァンが静かに視線を向ける。
「……では、こう問おう。お前はこれを使って、リリアナを“聖女”として偽り、帝国のリオネル皇子に嫁がせようとしていたのではないか?」
「……っ、何を言っているのですか陛下。そんな、根拠のない――」
レイナの声がわずかに震える。
アルヴァンは立ち上がり、控えていた近衛騎士に合図を送る。
扉が開き、拘束された侯爵――アーヴェルトが連れてこられる。
「お父様……!?」
レイナが叫ぶ。
「アーヴェルト侯は、すでに語った。そなたと共に、“偽聖の器”を使ってリリアナを聖女に仕立て上げ、皇子との縁談を結ぶ策を練っていたことを――な」
もともと、アルヴァンは交易路を通じて、密かに帝国に探りを入れていた。
その中で、アーヴェルト侯の使者がたびたびエルグレア皇帝と私的に謁見していたという報告が上がった。
そして、帝国側が――王国の国家機密である“聖女の存在”にとどまらず、“結界石”や“国を守る聖なる結界の構造”にまで言及している記録が確認されたとき――
もはや情報源は一つしかないと断じられた。
王国の根幹をなす神聖機密。それが外部に漏れたという事実は、もはや裏切りではなく、国家に対する重大な反逆だった。
「嘘よ! どうして……っ!」
レイナは父を睨みつけ、感情を爆発させる。
「裏切ったの!? お父様、どうして話したのよ! あともう少しでわたくしは帝国の聖母になれたはずなのに!」
アーヴェルトは目を伏せたまま、答えなかった。
その沈黙の中、かすかに震えるように唇が動く。
「……あの計画は潰えた。
器も失い、すべてが暴かれた今となっては――もはや、どうにもならん。
だが勘違いするな、アルヴァン。
私は国を裏切ったつもりなどない。最初から、“この国”などどうでもよかったのだ。
“聖女”という看板と、結界石に宿る聖なる力――
それらを手土産に、私はエルグレアへ渡るつもりだった。
神の加護をまとった“奇跡”の娘を携えて、
私は、あの帝国で――この国では得られぬ、“本当の力”を手に入れるつもりだった。
狭く、慎ましやかなこの王国で貴族として朽ちていくなど、私には耐えられなかった。
……私は、もっと高みへ行ける器だ、そのために、レイナも、リリアナも、ただ一つの駒に過ぎなかった。
……だが、失敗した。それだけだ。
罰を受けるのなら受けよう。だが私は、己の行動を恥じてなどいない」
アーヴェルトの言葉が終わった瞬間、広間の空気は凍りついたまま、しばし誰も動けなかった。
ただ一人、王アルヴァンだけが、まっすぐにその男を見据えていた。
「ならば問おう。その“器”とやらが求めたものは、ただの名誉か、権力か、それとも虚飾の王冠か。
どれほど雄弁に並べ立てても、結局のところ――お前が欲したのは、自分一人の栄光だけだ」
アルヴァンの声は冷えきっていた。情けも怒りも通り越し、ただ王としての断罪の響きを宿している。
「娘すら駒としか思わず、聖女を偽り、国を売ることでしか手にできぬ“力”など……それが、お前の信じる“器”の在り方か。――笑わせるな」
アルヴァンはゆっくりと歩を進めながら、言葉を続けた。
「そして――その策に乗り、自ら望んで民を欺いたレイナ。
娘を“聖女”として飾り立て、その名を利用し、王妃としての立場を利用し、神の名をも弄んだ。
……もはや、どちらが“真の主犯”であったかすら、定かではないな」
一瞬、空気が震えた。
「グレゴール・アーヴェルト。
王国の名において、お前を反逆罪として断罪する。
そして――レイナ・アーヴェルト。
その罪もまた、免れぬと知れ。
お前たちが登り詰めようとした“高み”が、どれほど浅ましく、脆いものであったか……その身で知るがいい」
アルヴァンの宣告に、レイナの瞳がかっと見開かれた。
そして唇を歪め、笑い飛ばすように叫ぶ。
「――高みを目指して、何が悪いというの!?
わたくしはね、こんな小国の“王妃”で満足できるような女じゃないのよ!
上を目指すのは当然でしょう? 誰だって、より良い未来を望むでしょう!?
親が娘を駒として扱うことなんて、この国では昔から当たり前に行われてきたこと。
わたくしだけが咎められる筋合いなど、どこにも――」
「――レイナ、口を慎め」
その声は静かでありながら、凍りつくような威圧を帯びていた。
アルヴァンが一歩前に出て、鋭くその瞳を向ける。
「己の欲にまみれ、神をも欺こうとしたお前の行いが……この国で“当たり前”に許されてきたとでも思っているのか。
そんなものは――ただの歪んだ欲望に過ぎん。
……お前の罪は、まだ他にもあるはずだ。違うか?」」
その言葉に、レイナが息を呑む。
扉が再び開き、近衛騎士に両脇を抱えられるようにして、ひとりの男が現れた。
顔には無精髭、法衣はぼろぼろに裂け、足元もふらついていたが、その姿を見た瞬間、誰もが凍りつく。
「カリオン……!」
ルカが小さく呻くように名を呼び、レイナは目を見開く。
その表情に、かすかな動揺と――恐れが浮かんだ。
アルヴァンはカリオンを見据え、静かに告げる。
「アーヴェルト邸の地下に匿われていたカリオンが、すべてを語った」
騒めきが広がる。
「リリアナを“聖女”に仕立て上げるために、結界石の光を偽装した――それは、すべてレイナ、そなたの指示だったと」
「……!」
レイナの肩が震える。
「そして、過去――“黒帝ヴァルザ”封印の時。
本来は、聖女の魂を犠牲にせずとも、封印できる術式が存在していたにもかかわらず――
そなたとカリオンはそれを意図的に伏せ、サクラに“命を賭して封印する”という手段しかないと教えた。
彼女を騙し、あの力と共に、この世から葬ろうとした……」
「……うるさい……っ!」
レイナが、怒りに満ちた声で叫ぶ。
「生かしておいたのが間違いだったわ、カリオン……! あのとき始末しておけば……!」
その目は憎悪に染まり、顔を覆う仮面がひび割れるように歪む。
「お父様もよ……なぜ黙っていられなかったの! お父様も、カリオンも、あの女も、みんなでわたくしの足を引っ張って……!」
視線がふと、ユナへと向けられる。
そこに立つ女――どこまでも冷静に、凛として、誰かに責められてもなお、堂々と人の前に立ち続けるその姿が――
どうしようもなく、癇に障った。
(どうして……あの女だけが……!)
心の中でそう叫んだ瞬間だった。
どこかで、低く、ささやくような声が聞こえた気がした。
〈許すな〉
それは幻聴だったのか、それとも……
わからない。だがレイナは、気づけば拳を強く握りしめていた。
視界の隅でユナの姿が揺らいで見える。
(落ち着かないと……でも……抑えきれない……)
「――うるさい! うるさい! うるさい……っ!」
レイナが突然、頭を抱えるようにして、耳を塞いだ。
けれど、かき消せない。胸の奥から響く声は、なおも彼女を責め立てる。
〈奪え〉
〈壊せ〉
〈あの女がすべてを奪ったのだ〉
「……黙れぇえええっ!!」
叫んだ次の瞬間、レイナは足音も荒く、ユナに向かって突進した。
髪を振り乱し、誰の制止も聞かず、まっすぐにユナへと手を伸ばす。
「返して……全部、返してぇっ!!」
怒りと嫉妬、執着と狂気――すべてを混ぜ込んだその叫びとともに、レイナはユナに掴みかかろうとする。
周囲が息を呑む中、その瞬間――
「やめなさい、レイナ!」
澄んだ声が、空気を断ち切った。
揺るがぬ力と静けさを宿したその声に、レイナの動きが一瞬だけ止まる。
しかし、彼女の瞳にはもう理性の光はない。
「黙れ……! お前さえいなければ……っ!」
再び手を振り上げ、ユナに襲いかかろうとした、そのときだった。
「――下がれ、レイナ!」
鋭い声と共に、影のように飛び込んできた男の腕が、素早くレイナの両手首を後ろから捉えた。
そのまま背中にねじり上げるようにして、動きを封じる。
「っ……離して! 離しなさいよ!!」
もがくレイナの手首を制するように、ルカが低く告げる。
「……あんたのやり方は、もう通らない。
この国でも、あんた自身の中でも――もう、終わってる」
両手を封じられたレイナは、なおもルカの手から逃れようと暴れながら、ユナを睨みつけ続けていた。
だがその視線に、かつての誇りや威厳は、もう微塵も残ってはいなかった。
「――レイナ」
響いたのは、ユナの声だった。
その声音は静かでありながら、怒りと哀しみを湛えていた。
「レイナ。あなたは――どうして、どうしてそこまで“自分のこと”しか見ないの」
レイナの動きが止まる。
その目に、ユナの瞳がまっすぐに射抜くように向けられていた。
「リリアナを聖女に仕立てて、国を守る力を奪って、誰かの祈りや命さえも、“あなたが望んだ立場”のために利用して……
それが、あなたの言う“王妃の誇り”? それが、母として、娘を導く者の姿だったの?」
「わたしは……!」
レイナの唇が震える。
「あなたが欲しかったのは、誰かに選ばれること、愛されること、称えられること……
だけどそれは、“与えられるもの”じゃない。
自分だけが特別でいたいと願うその心が、あなたを……孤独にしたのよ」
ユナはゆっくりと一歩、レイナへと歩み寄った。
「あなたが執着した“王妃の座”も、“聖女の名”も――
本来は、誰かを救うための“役目”だった。
なのにあなたは、それをただ“自分の価値を証明するための飾り”にしてしまった」
レイナは立ち尽くしたまま、言葉を返せなかった。
その指先だけが、かすかに震えていた。
「……レイナ。あなたは、リリアナの“母親”なのでしょう?
誰かに認められるためでなく、自分の地位や誇りのためでもなく――
ただ、あの子が信じて見上げてくれる、その想いに応えるために。
それだけの理由で……強くあってほしかった」
その言葉に、レイナは息を呑むようにまぶたを震わせた。
リリアナを、自分の望みを叶えるための駒にすることなど、レイナにとっては当たり前のことだ。
帝国の聖母として君臨する為に、“王の娘”という肩書きを使い、信仰をまとわせた。
そのやり方に疑問を抱いたことなど、一度もない。
(あの子が信じて見上げてくれる……その思いに応えるために……)
その言葉が、胸の奥で静かに反響していた。
(そんな理由で……? 誰かの“まなざし”のために、強く生きるだなんて……そんなもの……わたくしには、理解できない……でも、なぜこんなに心が揺れるの?)
レイナが何かを言いかけたその瞬間――
「――わたくしの心配には及びませんわ」
澄んだ声が、審問の間に響いた。
静まり返る空気のなか、扉が再び開かれ、優雅な足取りでひとりの少女が入ってくる。
揺れる金の巻き毛と、王女の装い。
リリアナ・グランディアが、まっすぐに歩みを進めてくる。




