78.夜のテラス
夕闇が青く沈み、王宮の灯が一つずつ灯りはじめる。月の光が、まるで薄布を透かすように柔らかく、光冠の夜会の為に用意された王城の控室のテラスを静かに照らしていた。
テラスの欄干にもたれながら、マナは空を仰いでいた。夜風にそよぐ栗色の髪。月光を受けて輝く、生成りと淡金のドレス。五大神殿の加護を象った聖紋が繊細な刺繍で浮かび上がり、まるで祈りの花が咲いたかのように彼女を包んでいた。
――今夜私は正式に聖女として任命される。この世界に来たばかりの頃は、自分なんかに“聖女”なんて務まるはずがない、そう思っていた。
けれど―― 癒しの力で、誰かの痛みを和らげた。祈りで、命の灯をつなぐこともできた。何度も傷ついて、それでも立ち上がって―― あんなに戸惑っていたのに……気づけば、もうここに、自分の居場所があった。
(……もう元の世界に戻れない……。わたしは、“聖女マナ”として、この国で生きていく)
マナはそっと胸に手を置いた。
(……それに、“聖女にならない”ということは――セト様の隣にいる資格を、自分で手放すということ)
その想いに、頬がかすかに熱を帯びる。
(こんな気持ち、浅はかかもしれない。迷惑かもしれない。でも、それでも……たとえ想いが届かなくても……それでも、私は――あの人のそばにいたい)
その時だった。控室の扉が、静かにノックされた。
「……失礼します」
聞き慣れた、けれどどこか改まった声。振り返ると、そこには夜会用の正装を纏ったセトが立っていた。
濃紺の礼服には、神殿の聖紋を象った銀の刺繍が控えめに施され、肩には半透明のケープがかかっている。
整えられた青緑の髪と、月明かりに揺れる翠の瞳―― その佇まいは、神官であると同時に、一人の青年としての美しさを際立たせていた。
「マナ、用意は整いましたか? 緊張しているのではないかと思って、心配で様子を見に来てしまいました」
セトの視線が、そっとマナの姿を捉えた。そして、一瞬だけ言葉を失ったように動きを止めた。
「……あまりにも美しくて……まるで、夜空から月の女神が舞い降りたのかと――」
その一言に、マナの頬が一気に朱に染まる。
「えっ……あ、あの、セト様……っ」
両手を胸元に寄せたまま、マナは顔を伏せた。恥ずかしさに指先が震えるのが、自分でもわかる。
セトはゆっくりと歩み寄り、マナの前で片膝をついた。そして、そっとその手を取る。
「聖女マナ。今宵、公の場において、あなたはこの国の希望となる存在――本物の“聖女”として、皆の前に立たれます」
その声は、神官長としての敬意に満ちていた。けれど次に続いた言葉には、ひとりの青年としての想いが滲んでいた。
「しかし……その姿を、誰もが目にすると思うと、不思議と胸がざわつきます。おかしいですね。私はただ、あなたが無事に夜会を終えられることだけを願っていたはずなのに……」
マナは一瞬、呼吸を止めた。頬がほんのりと熱くなるのを感じながら、胸の前で指をそっと重ねる。
「セト様にそんなふうに言っていただけるなんて……嬉しいです」
けれど、照れくささを押し込めるように、マナはまっすぐに顔を上げる。
「……きっと、私はまだまだ未熟です。でも、今日この場に立つことが――私に与えられた役目なら、逃げずにちゃんと前を向いてそれを受け入れたい、そう思っています」
そして、少しだけ笑みを浮かべる。
「セト様がそばで見守ってくださるなら……すごく、心強いです」
セトは小さく笑い、マナの手に口づけるふりだけをして、そっと手を放した。
「……本当に、強くなりましたね。誰よりも、あなたの強さも弱さも見てきた。だから……今宵の光が、誰よりもあなたにふさわしいと、私は誇れるのです。
どうか、その輝きを恐れずにいてください。あなたはもう、大丈夫だと……私は、心からそう信じています」
その声には、神官長としての静かな誓いと、ひとりの人間としての優しさが重なっていた。
マナはこくりと頷いた。セトは微笑を残したまま、ゆっくりと身を引く。そして扉の前で一礼し、静かに控室を後にした。
扉が閉まる“かすかな音”だけが、その場に残された余韻をそっと締めくくる。
マナはしばらくその扉を見つめ続けた。胸に当てた手から、鼓動がはっきりと伝わってくる。トクン、トクン、と――まるで、セトの声がまだ耳元に残っているかのように。
(どうしよう……さっきの言葉が、頭から離れない)
まるで夢みたいな時間だった。「美しい」なんて、あんなふうに言われたのは初めてで。それがたとえ、神官長としての社交辞令だったとしても――
(勘違いしそう……自分がセト様にとって、ほんの少しでも“特別”だったらって……)
頬の熱はなかなか冷めない。ドレスの裾を軽く摘みながら、マナはふわふわとした気持ちでテラスを後にし、控室の鏡の前に立った。ハーフアップに編み込まれた髪には金のリボンがきらめいている。化粧を施された顔――まるで、誰か別の女の子みたい。
そのとき。静かにノックの音がして、扉がゆっくりと開いた。
入ってきたのは、青藤色から紺への美しいグラデーションのドレスに包まれたユナだった。肩から腕にかけて透けるレース、身体のラインに沿ってしなやかに流れるマーメードライン、 月光のように揺れる薄布の裾―― まるで夜の静けさが人の姿を取ったような、気高くも穏やかな美しさだった。
「……わあ、お母さんすっごくキレイ」
マナは思わず見惚れて、声を漏らした。
「あなたもとっても似合っているわ、マナ」
その言葉に、マナは恥ずかしそうに肩をすくめた。
「お母さん……私こんな格好するの、初めてで。なんだか、自分じゃないみたいで……へんな感じ……」
「ふふ、そうよね。今まで、ドレスを着る機会なんてなかったものね」
ユナは優しく手を伸ばし、マナの髪をそっと整える。指先がそっと金のリボンをなぞり、ふわりと浮いた髪の一束を、そっと耳の後ろへと流す。
「でも、大丈夫。慣れないドレス姿でも、高校の制服姿だったとしても、どんな姿をしていても中身はなにも変わらないわ。あなたはちゃんと“あなた”のままよ。」
マナは瞳を潤ませそうになりながらも、ふっと微笑んだ。その笑みには、少女のあどけなさと、大人への一歩が同居していた。
ユナはもう一度、マナの肩に手を添えて言う。
「さあ、そろそろ夜会が始まるわ、緊張しなくていいのよ。……お祭りに行くみたいな気持ちで、楽しみましょう」
マナは小さく息を吸い、こくりと頷いた。
「……うん」
二人は並んで扉の前に立ち、目を合わせて、そっと微笑み合う。そして静かに、扉が開かれる。
静けさの奥に、華やぎの気配が高まっていく。扉の向こうに広がる舞台へ――母と娘は、胸にそれぞれの覚悟を抱き、光の道を踏みしめた。




