76.聖なる冠の裏側で
王妃の私室は、花の香を漂わせる香炉の香りに包まれていた。窓辺には一通の招待状が置かれている。その封蝋には、王家と神殿を象徴する双紋が刻まれていた。
レイナは緩やかに巻かれた金髪を指で弄びながら、ゆったりと椅子にもたれ掛かり、視線だけでそれを見やった。
「――光冠の夜会、ね。たいそうな名前をつけたものだわ」
その声音は、美しい笑みと裏腹に冷たく、どこか皮肉げだった。まるで“聖女任命”という舞台そのものを、愚かな茶番劇と見下すような目。
そのまま窓の外を見つめながら、レイナは先刻侍女から聞いた話を思い出し、ふっと小さく笑う。
(……“先日の深夜、陛下が神殿内のユナ様の部屋から出てきたと、知り合いの巫女から聞きました”
――そう、あの侍女が伝えてきた話。わざわざ口にするまでもないわ。見ていれば分かるもの)
一瞬、室内の空気が凍るように静まる。レイナの口元には、薄く冷たい笑みが浮かんでいた。
(あの女が現れてからのアルヴァンの変化……滑稽なほど分かりやすかった。どうせ時間の問題だったのよ。
私の“夫”に手を出されたことも腹立たしいけれど……、それ以上に……私の魅了にすら一切揺るがなかった男が、他の女に心を奪われたという、その事実が許せない)
だが、レイナの瞳は次の瞬間、鋭く、計算高く細められる。
(……でも、利用価値はあるわ。この状況、今度の夜会で、あの人の目の前で、堂々と“離縁”を申し出てやるの。王妃の座も、妻という肩書きも──もう必要ない。あの人も、今さら婚姻解消を拒む理由はないでしょう。すでに心ここにあらずなのだから)
招待状を机の上に戻し、レイナはドレッサーの前に立った。鏡に映る自分の姿に、うっとりと微笑む。
(夜会のあとは、一度ア―ヴェルト家に戻って──エルグレア帝国へ渡る準備を進めましょう。アルヴァンと聖女の蜜月劇の裏で、王妃が静かに王家を去る……完璧な幕引き)
(ふふ……“愛”だの“恋”だの、そんな幻想にすがっているから足元をすくわれるのよ。あの女……夜会で盛大に“貶めて”あげる。王妃の座に泥を塗った“聖女”の素顔を、誰よりも美しく暴いてあげるわ)
鏡の中で、レイナの瞳が艶やかに光った。その笑みは──花のように美しく、氷のように冷たかった。
そこへ、静かにノックの音が響いた。姿を見せたのは、深紅のドレスに身を包んだリリアナだった
「母上、ご機嫌よう。……あら、その招待状、私の部屋にも届いていましたわ。“光冠の夜会”とやらのものですね」
レイナはゆるやかに微笑み、指先で封蝋を軽く撫でる。
「ええ。“あの子”に“聖女”の冠をかぶせるらしいわ。
神殿も王も、結局あの娘を自分たちの都合に合う“象徴”として祀り上げることにしたのよ。……ご苦労なこと」
リリアナの表情から笑みが消え、代わりにその瞳に静かな怒りが宿る。
「王家の血を引く“このわたくし”こそが、真の聖女にふさわしいと言うのに。
結局、神殿もお父様も……私をお認めにならないのですね」
その声音は静かだったが、言葉の奥には抑えきれない憤りと屈辱が滲んでいた。
レイナはその様子を眺めながら、ゆったりと立ち上がる。
「いいえ、リリアナ。私たちには“次の舞台”があるのよ。
この国の“聖女”なんて肩書――あの娘に譲ってさしあげなさい。結界石も光らせられないような聖女、どうせ長くは続かないのだから」
リリアナは唇の端に笑みを浮かべた。
「そうですわね、お母様。わたくしには――エルグレア帝国のリオネス皇子との縁談もございますし。
あの子みたいに、毎日怪我人や病人の相手をしている暇など、ございませんもの」
その笑いには、軽蔑と優越感がはっきりと滲んでいた。
レイナもまた、満足げに微笑む。
(この子もようやく、“王女”という立場がどういうものか理解してきたようね)
「ところで、リリアナ」
ふと口調を変え、レイナは娘の背へ声をかける。
「最近、よく外出しているようだけれど……。まだ“お父様”がつけた監視の目があること、忘れてはだめよ」
リリアナは振り返らずに、さらりと答えた。
「神殿の礼拝室に祈りを捧げに通っているだけですわ。それくらい問題にならないでしょう?
それに――ほかに何かあったとしても“多少の遊びには目を瞑る”と仰ったのは、お母様ですわ」
そう言い残して、すっと部屋を出て行く。
レイナはしばらくその背を見送ったのち、ゆるく眉をひそめた。
(神殿……? まさか、あのセト神官長と……?)
思考の隅で一瞬引っかかりを覚えたが、すぐに口元をゆるめた。
(まあ、いいわ。リリアナも“心得ている”はず――何をすべきか、何を得るべきかをね)




