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75.夏草の香

 陽光がやわらかに差し込む午後。セリオス神殿の中庭は、風に揺れる草花と噴水の水音に包まれ、まるで時が緩やかに流れているかのようだった。

 白い石のテーブルには香り高いお茶と菓子が並び、そこに座る三人の姿は、絵画のように美しかった。


 「それにしても……聖女マナがサクラ――いえ、ユナの娘だったなんて。あのときは本当に驚いたわ」


 そう言って、銀髪をやわらかく揺らすイリナが微笑む。

 ユナは、そっとカップに口をつけた。


 「そうよね、私、あの封印で命を落としたことになっていたから……驚かれて当然だと思うわ。……だからこそ、こうしてまたイリナと話せていることが、夢みたいに感じるのよ」


 「私もよ、ユナ。それにしてもマナって、あの頃のユナにはあまり似ていない気がするのよね。……お父さん似かしら?」


 イリナの瞳が、茶目っ気を含んだ笑みに細められる。


 ユナは、わざと少し得意げな顔で返した。


 「そうかしら? とっても可愛くて、性格も最高に良いし、聖女だった頃の私にそっくりだと思うんだけど?」


 思わずイリナが吹き出す。


 「ふふ、出たわね“自称・伝説の聖女”。ふふ……でも、よくわかるわよ。あなたがどれだけ深くこの子を愛して、丁寧に育ててきたか。

マナを見ていると、それがちゃんと伝わってくるもの。――本当に、素敵な娘さんね」


 「あ、ありがとうございます、イリナ様……」


 マナが小さく肩をすくめる。頬を赤らめながら、おそるおそる口を開いた。


 「あの……イリナ様は、お母様が聖女だった頃の……お友達だと聞きました。その……お母様って、どんな聖女だったんですか?」


 イリナは少し驚いたように目を見開いたあと、ふっと微笑んだ。


 「そうね。どんな聖女だったかって、一言で言えば……とっても強くて、優しくて――ちょっぴり怖いところもあったかも?」


 「えっ、お母さんが“怖い”……?」


 ユナが首をかしげる。


 「私、怖いところなんてあったかしら?」


 「うーん……ない、と思います。少なくとも私は、お母さんを“怖い”って思ったこと、ないですね。怒られた記憶もあまりなくて……」


 そう言って考え込むマナに、イリナが優しく笑いかけた。


 「ふふふ、優しいお母さん、してるのねユナ。今度の聖女の任命式でも、そんな風に優しい顔していられるかしら?」


 「任命式……?」


 マナが首を傾げる。


 「そうよ。神殿と王が、あなたを正式に“聖女”として認める場。王城で行われるの。ちゃんと正式な知らせも届くはずよ」


 「私が正式に聖女として認められる……それって、たくさんの人が来るんですよね……」

 

 自分が“認められる”という言葉に、マナの表情が少しだけ曇る。

 ユナはそっと微笑んで、懐かしむように言葉を添えた。


 「聖女任命の儀……懐かしいわ。私の時はセリオス神殿だったわね。緊張して、手が震えて……」


 「そうだったわねえ、ユナ。あの頃のあなた……ふふ、今でも忘れられないわ」


 イリナがマナの方に顔を向けると、悪戯っぽく笑った。


 「ねえ、マナ。あなたのお母さんね、任命式で――当時この国の王子だったアルヴァン様を、思いきりひっぱたいたのよ」


 「えぇえっ!? お、お母さんが……アルヴァン陛下を!?」


 マナが目を丸くして叫ぶ。


 「王子様にそんなことして……お母さん、それって平気だったの? 怒られなかったの……?」


 ユナは苦笑いを浮かべ、湯気の立つカップを見つめた。


 「……あれは、陛下が悪かったのよ、だからちゃんと後で謝ってくれたわ、陛下が私にね」

 

 「ふふっ、何があったかわからないけど、お母さんって、若いころは意外と……気が短かったんだね」


 マナの笑い声が響く。ユナもイリナもつられて笑い、三人の笑い声は春の風に乗って、中庭にやわらかく溶けていった。



  ***



 しばらくして、マナが立ち上がる。


 「申し訳ありません、そろそろ“癒療の間”に向かう時間です。今日も、多くの方が祈りと癒しを求めていらっしゃいますので……失礼しますね」


 そう言って一礼したマナは、ふと立ち止まり、ぱっと明るく顔を綻ばせた。


 「イリナ様、今日は……お母さんが聖女だった頃のお話、たくさん聞かせてくださってありがとうございました!」


 スカートの裾をふわりと揺らしながら、マナは軽やかに駆けていく。

 その小さな背中が遠ざかり、廊下に響く足音がぱたぱたと消えていくのを、ユナはそっと目を細めて見送っていた。


 「……しっかり“お母さん”の目をしているわね、ユナ」

 

 ぽつりと呟くイリナに、ユナは小さく微笑んだ。


 「イリナこそ、双子の男の子と女の子を育てているんでしょう?」


 「あら、もう知っているのね? ルカにでも聞いたのかしら?」


 「そうよ。ルカがね、あなたが神官長としても母親としても、よく頑張っているって。嬉しそうに話していたわ」


 イリナは、にやりと口元をゆがめた。


 「……ねえ、ユナとルカって、本当に何もないの?」


 ユナは肩をすくめて、苦笑いを浮かべる。


 「“何も”って……ルカは信頼できる人よ。でも、あなたが思っているような関係ではないわ」


 「そうなのねぇ。ルカって、いい男だと思うんだけど。まだ相手もいないし、このままオズマみたいに独り身で終わるんじゃないかって、正直心配しているのよ」


 「ふふ……オズマに聞かれたら怒られるわよ」


 そんな冗談のあと、イリナの目がふと真顔に戻った。


 「ねえ、ユナ。……アルヴァン陛下とは、どうなっているの?」


 ユナは少し間を置いて、視線を遠くに向けた。


 「……アルヴァンとは、もう昔のような関係に戻るつもりはないわ。あの人には、家族がいるもの」


 イリナは何も言わず頷いた……が、すぐに思い出してしまう。あの王城での会議の後、石造りの廊下でルカを問い詰めるアルヴァンの姿。感情を抑えきれずに、真っすぐにルカを見据えたあの目を。


 (……でも、あの瞳には、まだあなたへの想いが残っているように見えたわ)


 イリナは庭の花々に目を向け、ユナに視線を戻す。


 「……ねえ、彼には、もう伝えたの?」


 「え?」


 「マナが、アルヴァン陛下の子供だってことを」


 ユナの指が震え、持っていたカップが傾ぎかける。


 「……な、何を……」


 否定の言葉が喉まで上った。

 けれど―― イリナの瞳に射抜かれた瞬間、ユナはそっと視線を落とした。


 「……言ってない。出来ることなら、このまま黙っていたいと思ってる」


 「どうして?」


 イリナの声は、まるで母が娘に尋ねるように、優しかった。


 「イリナこそ……どうしてマナがアルヴァンの子だって、分かったの?」


 イリナは目を細めて、懐かしむように言った。


 「あなたが聖女だった頃、陛下との話も色々と聞いていたもの。それでも“まさか”って思っていたけど……マナのあの眼差し、昔の陛下にそっくりなのよね」


 ユナは小さく頷いた。


 「……そうね、私も、そう思う時があるわ」

 

 「……なぜ、陛下に伝えないの?」


 イリナの問いに、ユナは静かに答えた。


 「アルヴァンには、家族がいるの。私とマナの存在が、あの人の家族に陰を落とすようなことはあってはならないのよ……。

 それに……もしマナが“アルヴァンの子”だと知られたら、彼女は“聖女”としてではなく、“王家の血筋”として縛られることになるかもしれない。マナには、あの子の意志で生きていってほしい……」


 イリナがそっと息を呑んだ。


 「だから私は……結界石のことが終わって、この国がまた平和を取り戻したら、……マナを連れて、姿を消そうと思っているの」


 「ユナ……」


 イリナの瞳が揺れる。

 ユナはゆっくりとイリナの手を取った。


 「お願い、イリナ。アルヴァンには、このこと……黙っていて」


 イリナは、その手の温もりを感じながら、小さく頷いた。


 「……そう。あなたがそこまで覚悟を決めているのなら――私も、それを信じるしかないわ。マナの未来も……あなたの願いも、きっと守られると」


 柔らかな風が中庭を通り抜け、揺れる花弁がふたりの影をそっと包み込んだ。

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