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74.戻れない光

 部屋の前まで戻ってきたユナは、扉に手をかけかけて――その動きを止めた。

 誰かが、そこに立っていた。

 月明かりに浮かぶその姿に、息が止まりそうになる。


 「……アルヴァン……っ」

 

 思わず名前を呼びかけて――ユナは慌てて言い直した。


 「……陛下。こんな時間に……」

 

 深く頭を下げるユナ。

 アルヴァンは何も言わず、ただその場に立ち尽くしていた。目元にかかる髪が、街灯の光に揺れる。

 やがて低く、絞り出すような声が落ちる。


 「……ルカと出掛けていたのか?」

 

 ユナは驚きの色を浮かべたが、すぐに言葉を選んで答える。


 「……はい。少し、相談したいことがあって……彼には、この世界に来てからずっと助けてもらっていたので」

 

 その言葉に、アルヴァンの表情が微かに歪んだ。 けれど、すぐにそれを押し殺し、短く息を吐く。


 「……何故だ?」


 「……え?」


 「何故、名前を呼んでくれない。なぜ、そんな他人行儀に頭を下げる」

 

 その声には、確かな痛みがあった。

 ユナは目を伏せ、小さく答える。


 「私は、もう……あなたに馴れ馴れしく接する立場ではありません。あの頃を思い出すのは……あの再会の日で最後だといったはずです」

 

 沈黙が降りた。

 アルヴァンはゆっくりと目を閉じる。そして、静かに、しかし確かに言葉を継いだ。


 「……そうか。……そうだよな」

 

 その声は、あまりにも寂しく、深く沈んでいた。

 けれど次の瞬間、彼は一歩踏み出し、ユナの前に立つと――

 扉に手をつき、彼女を閉じ込めるように囲い込んだ。

 背後の扉に押し付けられる形で、ユナの逃げ場はなくなる。

 

 そして、そのまま―― 唇が、重なった。不意打ちのような口づけだった。けれど、それはあまりにも切実で、長く、深く―― まるで、失っていた時間すべてと、奪われかけた何かを、今ここで取り戻そうとするかのようだった。

 ようやく唇が離れたとき、ユナは目を見開いたまま、声を震わせる。

 

 「……っ、アルヴァン……酔っているの……?」

 

 アルヴァンはその問いに、かすかに笑って応えた。

 

 「君もだろう? ルカと一緒に楽しんできたのか?」

 

 そして――再び、彼の手がユナの頬を包み込む。その手には、熱と衝動が宿っていた。

 まるで、誰かの影を消すように。もう一度、何も言わせずに、唇を塞ぐ。

 抗う暇もなく、ユナの背中が扉に押し当てられる。彼女を囲う腕にこめられた力は、どこか焦りにも似ていた。

 

 すべてを封じてきたはずの感情が、呼吸とともに溶け出していく。苦しくて、切なくて、あたたかくて、そして――どこまでも懐かしかった。

 ――こんなふうに触れられてはいけない。そう思うのに、身体は震えもせず、ただ静かに彼を受け入れていた。

 思考は霞み、過去と現在が溶け合っていく。


 唇が離れたその瞬間、空気が戻ってくる。けれど胸の奥には、言葉にできない熱が、まだ残っていた。彼の額がそっと触れる距離で、アルヴァンの低い声が落ちてくる。

 

 「ルカとはどんな話をしていた? なぜ君は俺ではなく彼を頼った……」


 その瞳が苦しそうに歪む。


 「君が苦しいとき、誰よりもそばにいたかった。守りたかった……今も、それは変わらない……それなのに」

 

 ユナは、胸が締めつけられるのを感じていた。けれど、その想いに応えることが、今の自分に許されているとは思えなかった。


 「……あなたには……家族が、いるでしょう?」

 

 その言葉に、アルヴァンの動きが止まる。少しの沈黙のあと、彼は低く問うた。


 「……君は?」

 

 「……私には、マナがいるわ」

 

 ユナの声は、震えていた。けれどその目には、確かな強さが宿っている。


 「……マナの、父親は……?」

 

 静かな問い。ユナはわずかに目を見開き、そして――首を振った。

 

 「……いないわ」


 しばらくの沈黙の果て、絞り出すように告げた声は、あまりにも静かだった。

 

 「マナは……私がひとりで育てたの。父親が誰かなんて、関係なかった。そう思うことで、ずっと……守ってきたのよ」

 

 それは真実だった。どれだけ夜を泣いて過ごしても、何度孤独に膝を抱えても、ユナは“母”として、少女を命をかけて育てて来た――

 

 「私は……誰のものにもならずに、あの子だけを守って生きてきた。これからもそう。だから……もう、これ以上は……」

 

 言葉が続かない。胸の奥から、なにかがこみ上げてくる。

 そんなユナを見つめながら、アルヴァンはそっと目を伏せた。

 

 「……すまない」


 その声は低く、かすかに震えていた。

 

 「君はひとりで……」

 

 彼の手が、そっとユナの頬をなぞる。まるで、過去の痛みをなぞるように―― もう一度だけ、愛していると伝えるように。

 去ろうとしたアルヴァンの背に向かって、ユナが小さく口を開いた。

 

 「――アルヴァン。……ひとつだけ、伝えたいことがあるの」

 

 その声音は、さっきまでとは違っていた。

 ユナは自室の扉を開き、そっと彼を招き入れる。アルヴァンはわずかに戸惑いながらも、部屋に足を踏み入れた。淡い月光が、二人を包み込む。

 ユナはベッドの枕元に手を伸ばし、丁寧に畳まれた布包みを取り出す。包みをそっと開いた手のひらに、銀色の珠がひとつ、ひっそりと乗せられていた。

 淡く、呼吸のように微かに光を灯す珠。

 

 「……これを、カリオンの部屋の奥で見つけたの。結界魔法に隠された扉の向こう……閉ざされた地下室の中にあった」

 

 アルヴァンの表情が強張る。その目は、ユナの手の中の珠に釘付けになっていた。

 

 「これは……?」

 

 「分からないわ。でも……感じるの。この珠に宿っている魔力は、私がかつて結界石にささげた力と、まったく同じ波動を持っているの。……間違いない」

 

 ユナの瞳が静かに揺れる。

 

 「もしこの珠が、本当に私がかつて結界石に捧げた魔力そのものだとしたら―― その魔力を、誰かが意図的に抜き取り、この珠に封じたということになる。

 結界石の力が衰えていたのは……この珠に魔力を奪われていたせいなのかもしれない。そう考えると、辻褄が合うのよ」

 

 アルヴァンは、珠に視線を落としたまま、拳を握りしめる。

 

 「カリオンが……?」

 

 「確証はない。でも、見つけたのは彼の隠し部屋だった。……だから、彼の意志が関わっている可能性は否定できない」

 

 ふたりの間に再び、沈黙が流れた。


 「このことを誰かに?」

 

 ユナは、珠を布に包み直すと、ゆっくりと首を振る。


 「まだ誰にも……正直、だれに打ち明けたらいいのか迷っていたの」

 

 アルヴァンは暫し考え込み顔を上げた。


 「……君の考察は正しいと思う。だが、この珠のことを今、皆に明かせば……真実に辿り着く前に誰かに握り潰される恐れもある。だから……今はまだ、このことは俺たちだけの秘密にしておこう。

 真実を暴くべきときが来たなら、必ず――その時に、君と共に、この珠を真実の証として示そう」

 

 ユナは黙って頷く。言葉ではなく、眼差しで――その申し出を受け取った。

 静かに視線を交わしたのち、アルヴァンはゆっくりと背を向けた。扉の前で一度だけ振り返ると、ほんのかすかに微笑む。

 

 「……さっきは、すまなかった。君に、あんなふうに……触れてしまって」

 

 アルヴァンは視線を伏せ、苦く笑う。


 「……君が、また俺の手の届かないところに行ってしまうのが、怖かったのかもしれない」

 

 ユナは黙って彼の言葉を受け止めていた。アルヴァンはゆっくりと顔を上げ、その瞳にまっすぐな光を宿す。

 

 「それでも、君がこうして話してくれたことが……嬉しかった。今でも、君が俺を信じてくれていることが、たまらなく救いになる」

 

 ほんのひと呼吸の間、彼は何かを飲み込むように目を閉じた。

 

 「俺には……家族がいる。守るべき立場もある。それでも……君が選ぶ道を、遠くからでも……見守っていたいと思っている」

 

 そして、扉が閉まる。小さな音とともに、部屋に再び静寂が満ちた。

 

 ユナはその場に立ち尽くしたまま、しばらく動かなかった。けれどやがて、静かに息を吐き、歩みを進める。

 部屋の隅、机の中から、一冊の手記を取り出す。重たく綴じられたその書は、カリオンの隠し部屋に残されていたもの――

 頁の端に刻まれた、特徴的な筆跡。そこに綴られていたのは、聖女の儀、封印の術式、そして――封じられた“もうひとつの真実”。

 ユナはそっとそれを胸元に抱き寄せた。

 

 (……この手記の中には、あのとき私が知らなかったことが、詰まっている。ヴァルザ封印の“本当の代償”。そして――あの子が、この世界に召喚されることになった理由)

 

 揺れる蝋燭の灯が、手記の金の縁を淡く照らしていた。

 ユナはページをめくることなく、ただそれを静かに見つめた。

 

 (……本当は、全てを話すべきなのかもしれない……ヴァルザを封じた“本当の方法”を、マナの父である――あの人に)

 

 胸の奥が、きゅっと痛んだ。

 

 (でも……)

 

 それを言葉にしてしまえば、戻れなくなる気がした。だからユナは、そっと目を閉じたまま、夜の静けさに身を委ねた。

 そしてもう一度、手の中の手記を、そっと抱きしめる。

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