73.伸ばせない手
夜風が頬を撫で、遠くでかすかに鐘の音が響いていた。神殿への帰り道。街灯に照らされた石畳の上を、ユナとルカが肩を並べて歩いていた。
見上げれば、雲ひとつない空に星が瞬いている。
「そういえば、ユナはイリナとオズマと顔見知りだったんだな」
ふとそう口にしたルカに、ユナは頷いて微笑んだ。
「ええ。私が“サクラ”だった頃、あのふたりはもう神官長だったから……。さっき、久しぶりに会えて懐かしかったわ。二人とも相変わらず元気そうで、よかった。本当はもう少しゆっくり話したかったんだけど」
「イリナはな、神官長やりながら双子を育てているんだってよ。男女の子で、今年十歳になるって言っていたかな」
「えっ……!」
ユナは目を丸くして振り返る。
「イリナが……子供を……? そうなのね、イリナ、あの頃は、私より少し年上のお姉さんって感じで、ちょっと怖そうにも見えたけど、本当はすごく優しい人だった。ヴァレア神殿に行くたびに、あれこれ相談していたっけ……。きっと今は、優しいお母さんをしているのね」
その声には、ほのかな懐かしさと、どこか遠い憧れのような響きがあった。
「……こっちの世界でマナを育てていたら、イリナと“子育てトーク”とか、できたのかな」
そう言ってユナは、少し寂しそうに笑った。
「うん?……」
ルカは返す言葉を探すように少しだけ沈黙したが、ユナの方が先に首を振った。
「ううん……でも、今日はあなたと話せて本当によかった。少し、思いつめていた気持ちが、とても楽になったわ、ありがとうルカ」
その言葉に、ルカは少しだけ目を見開いた。
心のどこかが、柔らかくほどけるような感覚。
「……それなら、よかった」
小さく笑みを浮かべながら、そう答える。
けれど、その微笑の奥には、ほんの僅かな戸惑いが揺れていた。
こんなにも近くにいて、こんなにも遠い。
目の前にいる彼女は、今もなお誰かの光であり続けている。
自分が触れていい感情なのか―― 何度も自分に問いかけて、そして、踏みとどまる。
(……気づけば、惹かれていた)
そんな想いを、ただ心の奥にそっと沈める。
神殿の門が近づいてきた。ユナが歩みを緩めて振り返る。
「じゃあ、ここで。……ルカも、気をつけて帰ってね」
神殿の灯りが届く場所でユナが足を止め、微笑みながらそう言った。
ルカも歩みを止めて、頷こうとしかけたが――ふと、何かを思いとどまったように振り返る。
「……部屋まで、送るよ」
その声は穏やかで、どこか名残惜しさを滲ませていた。
けれどユナは、そっと首を横に振る。
「ありがとう。でも、大丈夫よ」
やさしく微笑んで、ほんの一瞬だけ目を伏せる。
そして、静かに続けた。
「ルカは、自分で思っているよりもずっと疲れているんじゃない? 今日の会議も長時間だったし、気を張っていたでしょう?」
少しだけ言葉を選ぶような間があってから、ユナは顔を上げる。
「だから、無理しないで。部屋に戻って、ゆっくり休んでね。……また、明日」
その声音には気遣いと、そしてほんの少しの寂しさが滲んでいた。
ルカは何か言いかけて、けれどやめた。
代わりに、小さく息をつき――静かに頷く。
「……わかった。おやすみ、ユナ」
「おやすみなさい、ルカ」
そうしてふたりは、別々の夜へと歩き出す。
それきり、何も言わせずにユナは神殿の中へと歩き出した。その後ろ姿が、夜の静けさの中にすっと吸い込まれていく。
ルカはその場に立ち尽くしたまま、しばらくその姿を見つめていた。
胸の奥に、言葉にならない何かが残っていた。 星の光がこんなにも滲んで見えるのは、きっと夜風のせいじゃない。
――オレは、ただの神官長で、ただの……傍観者か?
それでも、あの笑顔を守りたいと思ってしまう。 そばにいたいと、心のどこかで願ってしまう。
ルカはそっと夜空を見上げていた。
――今日くらいは、夢を見てもいいか。
ひとり呟いて、彼もまた、静かな回廊へと足を向けた。




