72.ほどける心
柔らかな灯りに照らされた店の一角。木のぬくもりが残るテーブルの上には、いくつかの料理が並び、赤いワインが満たされたグラスがふたりの手元で静かに光っていた。
ユナはグラスを軽く傾けながら、ルカを見つめて微笑む。
「お疲れさま。今日、王都から戻ってきたって聞いたわ。……きっと、疲れているでしょう?」
ルカはグラスを一口飲んで、肩をすくめた。
「いや。朝着いて、神官長たちと打ち合わせするまではずっと寝ていたからな。意外と元気だ」
「ふふ、そうなのね。今回もフィロとヴィゼルは一緒に?」
「ん、ああ。あのふたりも今頃はこの街のどこかで飲んでいるんじゃないか?」
ふたりは思わず顔を見合わせて笑った。長い旅の疲れをほぐすような、静かな笑いだった。
やがてルカが、ふとグラスを置きながら尋ねる。
「娘とは、相変わらず仲良くやっているのか?」
「ええ。でも……」
言いかけてユナは少し視線を伏せる。
「なんだ、娘と喧嘩でもしたのか?」
「違うの。とっても仲良くしているわ。……でも最近思うの。マナも私も、ふたりでずっと生きてきたから……お互いに依存しすぎているんじゃないかって」
ユナの声にはどこか自嘲のような優しさがあった。
「もうあの子も十六歳。私はもう少し、距離を取らなきゃいけないと思っているの。でも、なかなかできなくて……つい手を伸ばしてしまう」
そう言ってユナは照れたように笑い、ワイングラスの縁を指でなぞる。
ルカは真っ直ぐにユナを見て、静かに言った。
「……それでも、娘は、あんたのそばにいたいって思ってるよ。依存なんかじゃない。ふたりで支え合ってきた時間が、それだけ深かったってだけだ。……それは、決して悪いことじゃない」
そして、ふっと目を細める。
「でも、そうだな。母娘も……ずっと一緒にいられるわけじゃないもんな」
ユナは頷いた。その瞳の奥に、かすかな寂しさが宿っていた。
「ええ。いつかは、この手を離さなきゃならない……。そして私のいない世界で、あの子が一人で、ちゃんと立って歩いていけるようにしないと……」
しばしの静寂がふたりの間に流れ、遠くの席の笑い声がわずかに耳に届いた。
やがてルカがグラスを置き、言った。
「……そういえば、相談って何だったんだ?」
ユナは少しだけ目を伏せ、そして首を横に振った。
「……もういいの。自分の中で、余裕がなくなっていた時に―― あなたがここに来ているって聞いて、焦って、あんなこと言ってしまったけど……」
そして、そっと笑う。ワインの紅が、その頬にわずかに灯っていた。
「今日はこうしてあなたと、同じ食卓を囲んで、お酒を飲んで……少しだけ、救われた気がするの。だからもう、大丈夫」
その微笑みがあまりに柔らかくて、ルカは思わず言葉を失った。
――酒のせいじゃない。今なら、そうはっきりわかる。
心に浮かぶ熱を、そっとグラスに沈めるようにワインをひと口飲み、ルカは何も言わずにただ、ユナの笑顔を見つめていた。
ふたりの時間は、そのまま静かに流れていく。 灯りに照らされたテーブルの上には、ぬくもりと、言葉にならない思いが穏やかに満ちていた。




