65.歪められた理
それから数日、ユナは自室にこもり続けた。誰にも会わず、食事もほとんど口にせず、ただひたすらに――あの地下室にあった全ての書物に目を通していた。カリオンが集めていた禁書の数々。魔術、儀式、封印、そして失われた神託に関する記録。 一冊また一冊と頁を繰るたび、胸の内に冷たい何かが沈んでゆく。
「黒帝ヴァルザ――それは、世界の外から来た異物などではない。この大地に積もり続けた“魔”、すなわち怨み、憎しみ、嫉妬、絶望――人々の負の感情が長き時をかけてひとつの“核”へと集まり、やがて意志を持った存在。それこそが、ヴァルザの正体である。
そして、奴が姿を現すとき、結界石はその力を失い、ラーデンリアの地は闇に包まれる。歴代の聖女たちは幾度となくその魔王を退け、消し去ることで結界石の力を取り戻してきた。だが、それはあくまで一時の鎮静にすぎない。“核”がこの地に残り続ける限り、百年、あるいは数百年の時を経て、ヴァルザは再び蘇る。大地の“魔”を吸い上げ、憎悪の王として、再びこの世界に災厄をもたらすのだ。
いかなる刃も、いかなる祈りも、核を封じぬ限り、闇を終わらせることはできない。ただの勝利では、終わらぬ戦いがある。そして今――その“終わりなき闇”に、終止符を打つときが来ているのだ。」
「核を封じる手段は、ふたつある。ひとつは、選ばれし魂に核を取り込ませ、その命ごと消し去るという方法。もうひとつは、“契約の理”を正しく結び、世界の法則に則って、核そのものを大地へと還元する術である」
「契約の理を正しく結び、とは……」
ユナは小さく息を吐き、目の前の文を見つめながら呟いた。
「これはきっと……“聖女の魂”と“王家の血”を、ただ揃えるだけでは足りないということ。二つの力が、互いを選び、結び合う――その意志と信念があって、初めて意味を持つのだわ。神が定めた形で、きちんと交わらなければ……封印の力は発動しない」
血筋や力だけでは不完全。大切なのは、“魂と血が、自らの意志で手を取り合う”こと――それが神に認められた“契り”なのだと、ユナは思った。
「つまりこれは……人の手で、神と世界が求めた“約束”を果たすということ。一方的な犠牲や命の交換じゃない。“選び取った絆”によって、魔を封じる術」
ユナは静かに目を伏せた。
(この方法ならば……あの時、私とアルヴァンの二人でヴァルザの封印は出来ていたはず……)
ユナの手が、微かに震えた。あの日――黒帝ヴァルザ討伐の数日前。カリオンは、たしかにこう言った。
「──サクラ……あなたは、選ばなければならないのです。
黒帝ヴァルザは、倒しても核が残る。いずれまた、災厄は繰り返されるでしょう。
この国に真の平和をもたらすためには、“核”そのものを、聖なる力で封じるしかありません」
「方法は?」と問うユナに、カリオンはゆっくりと答えた。
「方法は……二つだけです。
一つは、あなたの魂を用いて封じること。聖女の魂に核を取り込み、その命ごと消し去る。
もう一つは、王家の血――アルヴァン王子の命を代償として、封印を完成させること。
……選べる道は、それしかないのです」
その声には、確かに迷いがあった。だが、当時のユナには、それが“迷い”とは感じられなかった。
あの時、ヴァルザの核をその身に封じた瞬間――光が全てを包み込んだ。そしてユナの意識は、闇に呑まれる寸前だった。だが――命は消えなかった。
(……では、なぜ。私は生きていたの?)
記録を辿るうち、ユナの胸の奥に、ひとつの仮説が形を取りはじめていた。
(あのとき、私は……マナを宿していた。 聖女の魂と、王家の血。二つの力が、ただ揃っていただけじゃない。私は――アルヴァンを、心から信じて、愛して、共に未来を歩むことを願っていた。そしてその想いは、マナという命になった)
それはまさに、神が定めた“契約の理”そのもの。ユナは自覚もないまま、真の封印条件を満たしていたのだ。
(だから、命は奪われなかった。私はあの子を……この世界にとっての“証”を、この身に宿していたから)
けれど、その代償はあまりにも静かで、残酷だった。
それは、神が定めた“契約の理”そのものだった。だが――ユナは、それを正しく使わなかった。
彼女は、本来“大地に還すべき”封印の力を、自らの魂という器に収めてしまった。
(封印の理を……私は、歪めてしまった)
本来であれば、聖女の魂と王家の血の交わりによって成立する封印は、その力を“大地”という神の座に還元することで、理の中に収まるはずだった。
だがユナは、それを知らずに、自分の魂にヴァルザの核を閉じ込めてしまったのだ。
封印は、成立した。だがそれは、理に沿ったものではなく、逸脱したかたちでの“完了”、だった。
(だから――世界は私を拒んだ?)
理を逸れた封印。その歪みを正すかのようにして、世界は――ユナを“排斥”しようとしたのだろうか。この世界の内部に存在してはならぬ者として。神の理に基づく世界秩序から、彼女は―― “排除された”のだろうか?
静かに、ユナは目を閉じた。
(……あれは還されたのではない。この世界が、私を拒んだのだ。私がここにいることで、神の理は乱れていた)
そして思い出す。あのとき、ヴァルザ封印の衝撃は凄まじく、マナの命は危うかった。ユナは、本能のように、小さな命を守ろうとした。無意識のうちに、聖なる力――自らの魂の一部を、胎内の子に与えていた。
(そしてマナも……私を守ってくれた。王家の血を継ぐその命が、まだこの世に生まれぬその小さな体で、私を支えてくれた)
ふたつの命が、互いを守り合った。その奇跡によって、封印はかろうじて“形”になり、世界は崩壊を免れた。
だが――失ったものも多かった。記憶、聖女としての完全なる力、そして、この世界に在る資格。
ユナは、静かに呼吸を整え、指先で書の最後の頁を閉じた。
(もしも、私があの時――)
胸の奥から湧き上がってくる思考が、熱を帯びた痛みとなって突き刺さる。カリオンに命をもってヴァルザを封印するしかないと言われた、あの瞬間。もしも、あの時、自分の中にマナがいると気づいていたなら――
(きっと、私は抗った。抗って抗って、何としてでも……マナの命を守る道を探した。諦めなかった……)
けれど、あの時の自分は、マナの存在も知らずに、ただ、アルヴァンを巻き込みたくない一心で、迷わず自らを犠牲にしようと決めてしまった。
(……なんて、愚かだったんだろう)
自嘲するように、ユナは息を吐いた。 ――その選択の代償は、あまりに大きすぎた。
マナは、生まれながらにしてユナの聖なる力の一部を引き継いでいた。それゆえに、召喚の儀はマナを選んだ。ラーデンリア王国の“聖女”として、この異世界へと呼び寄せた。
(そのせいで……あの子は、大切な友達も、普通の生活も……全部、全部置いてきた)
自分が命をかけたはずの選択は、結果的に――マナから“日常”を奪ったのだ。
それだけではない。あのとき、自分が選んだあの決断が、アルヴァンの人生まで長く縛りつけてしまった。
助けられなかった私のことを忘れられず、王としての責務と私への想いの狭間で、彼はきっと、ずっと苦しんできた。
「……全部、私のせい……」
唇が震え、言葉が零れる。喉の奥が焼けるように痛い。その瞬間、押し寄せてきた後悔の奔流に、ユナは思わず机に額を伏せた。
(私が、母であるせいで――マナは日常を失い……
私のあの時の選択のせいで――アルヴァンの人生を歪めてしまった……)
涙はもう、とっくに枯れたはずだったのに、また静かに頬を伝っていた。それでも、誰も責められない。ただ、何も守れなかった自分が、許せなかった。




