64.堕ちた導きの手
ノエリア神殿の奥、重々しい扉の前に立つと、見張りの神官はユナの顔を見るなり、頭を下げ、無言で鍵を外した。 錠が静かに外れる音が、廊下の静寂に微かに響いた。
ユナは軽く礼をして扉を開ける。重厚な木の扉が音もなく開き、彼女はひとり、その部屋に足を踏み入れた。
――大神官カリオンの執務室。
内装は以前と変わらぬままだった。整然と並べられた書架、灰色の絨毯、壁際の小さな祭壇、そして部屋の中央には、深緑の布張りのソファと書き物机。
「……懐かしいわね」
小さくつぶやきながら、ユナはそっと部屋を見渡す。 この空間には、数えきれないほど足を運んだ記憶があった。
カリオン――かつて神官長として、この世界に召喚されたユナを導いてくれた人。聖女として右も左もわからなかった頃、彼の言葉は教えであり、支えだった。
(……そう、信じていた)
あの頃の彼は、聖女への信仰に生きる人だった。礼儀に厳しく、信仰に忠実で、聖女である自分を尊重してくれていた。……ただ、アルヴァンと心を通わせるようになってからは、その目が時折、冷たくなった。
優しかった叱責は、厳しさへと変わり、時に苛立ちのようなものさえ感じた。
(それでも、私は……彼を信頼していたのよ。導いてくれる神官長として)
ユナは静かに歩を進め、部屋の奥、ソファの前で足を止めた。
「……この部屋にも、よく通ったわね」
祈りの方法、歴代の聖女の記録、神と人の契約――あらゆることをこの場所で教わった。日々の鍛錬と、びっしりと文字の詰まった古文書に囲まれて、眠気と戦いながら机に向かっていた、あの頃。
ユナはソファに手を添える。
思い出す。あの日――
書に囲まれ、頭がふらふらになりながら、ついに眠気に負けてしまったあの夕暮れ。気がつくと、このソファの上でうたた寝をしていた。
そのとき、うすぼんやりとした視界の中で――カリオンが書架の向こうへと姿を消していくのを、見た気がした。
(夢……だと思っていたのよ)
目が覚めたとき、すぐ目の前にはカリオンが立っていた。
「お疲れのようですから、今日はここまでにしましょう」
そう言って穏やかに微笑んだ彼に、気恥ずかしさを覚えながらも、深く疑うことはなかった。
(……もし、あれが夢じゃなかったとしたら?)
もし、本当に書架の奥に“隠し部屋”があるのだとしたら。そしてそこに、彼が誰にも見せたくない“何か”を隠しているのだとしたら――
ユナの視線が書架に向く。整然と並ぶ書物、その奥にかくされた道を、彼女の記憶が探り当てようとしていた。
(カリオンが秘密を隠すとしたら……あそこしか思い当たらない)
まるで記憶の中の微かな光を手繰るように、ユナは静かに、書架の前へと歩を進めた。
ユナは書架の前に立ち、そっと息を整えた。
書物は高さも揃えられ、分類にも乱れはない。
ユナは決意を込めて、書架の一段一段を丹念に調べ始めた。背表紙をなぞりながら、そっと書を引き抜き、机の上に丁寧に並べていく。
一段、また一段と――
下から二段目に差し掛かったときだった。全ての書を取り出したその奥、木板の影に、わずかに盛り上がった部分があるのが目に留まる。
(……あれは?)
よく見なければ気づかないほどの微かな突起。指先で触れてみると、冷たく、硬い。押しても、引いても、何の反応もない。隠しスイッチのような仕組みには見えない。
(それでも……なぜか、気になる)
ユナはわずかに目を細めた。
(この場所に何かがあるとすれば、物理的な仕掛けではなく――魔術的な、何か……試してみる価値はあるわね)
彼女は静かに目を閉じ、掌に魔力を込めた。指先からゆっくりと流し込むように、その突起へと意識を集中させる。
すると。
青白い光が、ぽうっと突起のまわりに灯った。
それは静かな呼吸のように瞬き、周囲の空気が、かすかに揺れる。
ギ……と、重く軋む音を立てて、棚がゆっくりと脇へと開いていった。
閉ざされていた空気が、ふっと鼻先を撫でた。
(……やっぱり、隠し扉だったのね)
ユナはゆっくりと呼吸を整え、姿勢を正した。
開かれた書架の奥には、石壁に囲まれた狭い通路が続いている。
かつての記憶の中、夢のように曖昧だった光景――書架の向こうへ消えていくカリオンの背中―― それは、確かに現実だった。
ユナは一度、静かに目を伏せると、足音を忍ばせて、その通路へと一歩を踏み出した。
石で囲まれた狭い通路をゆっくりと下っていった。足音が壁に反響し、重く静かな空気が肌を撫でる。
数段の階段を降りた先に、広い空間が開けていた。
古びた石造りの床に、等間隔で並ぶ重厚な書架。並べられた書物はどれも時代を感じさせるものばかりだった。
部屋の中央奥、半円形に高く設けられた台座には、ひときわ目を引く像が鎮座していた。
それは、長衣をまとい、静かに祈るような姿の“聖女”の像。瞳は閉じられ、唇はわずかに綻んでいる。慈愛と神聖を宿したようなその表情――
ユナは、息を呑んだ。
「……これは……」
どこかで、見たことのある顔。――これは。
「……まさか、私……? ……いえ、そんな……」
ユナは像の前で立ち尽くした。祈りを捧げる姿勢、柔らかな表情、流れる髪のかたち――
それはまるで、十数年前の“自分”を石に刻んだかのような像だった。
恐る恐る、両手を伸ばし、そっと抱き上げる。ひやりとした石の感触が指先に伝わり、その重みと細工の緻密さにぞっとする。――神聖すぎるほどに、作り込まれた聖女像。
(……こんなものをカリオンが……)
祈るようなその顔が、まるで“理想を押しつけられた自分”を見せつけているようで――
ユナは小さく息をのんだ。
像をそっと元の場所へ戻そうとした時――ユナの目が、台座の中央にある“違和感”に気づいた。
石の台座の中央――像が置かれていたその下に、蓋のようなものがあるのが見えた。
装飾に紛れるように巧妙に隠されていたが、その蓋を開けると白い箱が一つ、ぴたりと収まっていた。
ユナは息を詰め、そっと持ち上げる。軽くもなく、重くもないが――中に何かがある。緊張の面持ちで、ゆっくりと蓋を開けた。
中には――手のひらほどの大きさの、銀色の珠が一つ、静かに置かれていた。
「……これは……」
指先が触れた瞬間、ぴりりとした魔力の気配が皮膚を刺す。 ただの魔道具ではない。封じられた魔力の濃さが、珠そのものから熱のように立ち上る。
(この魔力……まさか)
ユナの眉がわずかにひそめられた。その存在そのものが警鐘のように、ユナの胸を打った。
ユナは思わずそれを胸元に抱き、ポケットへとしまい込んだ。
再び部屋を見渡し、書架の書物に目を向ける。背表紙には、古代語で書かれた文字が整然と並ぶ。
『聖女史録』『魔王封印録』『神託と犠牲』『魂の転写理論』――棚に並ぶ古文書の中に、ひときわ新しい一冊があった。革の装丁はやけに滑らかで、他の本に比べて違和感があるほど手になじむ。
ユナは首を傾げながらそれを手に取った。開いてみると、内容はごく普通の――聖女制度について記された書物のようだった。だが、妙に厚みのある背表紙が気になり、指先で探るように調べてみると、わずかな継ぎ目を見つけた。
爪を引っ掛けて力を入れると、中から一冊の手記が出て来た。表紙に名は記されていなかったが、綴られている筆致と記述内容から、書いたのが誰であるかはすぐにわかった。
(――カリオン)
そこに綴られていたのは――
『私は、サクラを愛していた。いや、あれは愛などではない 彼女の聖性に溺れ、救いと欲望を混同していたのだ。
アルヴァン殿下と心を通わせる彼女を見るたび、胸が焼け、血が騒いだ。
“穢れる”という言葉を、最も強く恐れていたのは、他でもない私自身だった。
――だというのに。心の奥底で、私は何度も彼女を穢していた。 誰にも見えぬ場所で、誰にも知られぬままに。そのたび、己の醜さと、彼女の清らかさの対比が、ますます私を狂わせた』
ページをめくるごとに、文字は乱れ、告白は懺悔に変わっていく。
『私は、レイナに言葉をかけられた。「このままでは、あなたの聖女はアルヴァンに穢されてしまう」と。
その言葉に、私は救われたような気がした。いや、そう思いたかったのだ。
あの光が、他の誰かのものになるくらいなら。穢れを知らぬまま、純粋な輝きのまま――消えてくれた方がいい。私は、そう願ってしまったのだ。
そして、レイナに言われるままに動いた。黒帝ヴァルザを、その魂に封じ、完全に消滅させる術式。
サクラに、封印の“真なる方法”としてそれを伝えた。
聖女の力と王家の血、その二つが揃いさえすれば、命をかけずともヴァルザを封印できると、私は知っていたのに。
これで彼女は、永遠に穢れず、私の中の聖女として在り続ける。 ――私は、導いたのではない、仕向けたのだ。自分の欲望のために、あの光を消したのだ……永遠に還れぬ場所へ』
ユナの目から、色が消えていく。ページをめくる手が、かすかに震えた。
『あの夜、レイナが私のもとに現れた。甘い声で囁き、酒を注ぎ、迷いも罪もすべてを包むように私を誘った。私は……抗えなかった。彼女の肌に触れながら、私は――サクラを思い浮かべていた。
心の中で、彼女の名を何度も何度も……わかっていた。目の前の女は、私の焦がれた光ではない。それでも、止められなかった。
その時間だけは、自分の罪から目を背けていられた。いや、見ないふりをしていただけだ。醜い幻想にすがりながら、ただ、自分を誤魔化していたにすぎない。
だが――夜が明けるたびに、私は夢を見る。祈るような眼差しで私を見つめる、その面影を。その声が、あの瞳が、今も私の胸を焼く。
許されようとは思っていない。けれど……あの光を忘れてしまうことだけが、何よりも恐ろしい。』
ユナは、手記を持つ手をそっと下ろした。
そのまま、ひざが崩れるように床に落ちる。
「……こんな……ことって……」
目の奥が焼けるように熱くなった。あの頃、信じていたもの。背を預けた導きの手。それが、こんなにも歪み、堕ちていたなんて。
誰もいないはずの地下室の空気が、まるで深く沈黙しているようだった。




