63.気づいた気持ち
王都の市街地は、昼下がりの光に満ちていた。
石畳の道に軒を連ねる店々からは、パンや花、香辛料の香りが混じって流れてくる。
「……あれ? こっちの通りでしたっけ?」
セトが立ち止まり、あたりを見回す。 その様子にマナが思わずくすっと笑う。
「セト様って、もしかして……あまり街に出たことないんですか?」
「ええ、まあ……書物と神殿の往復ばかりでして。街の道には、少々不慣れです」
「なんだか……かわいいですね」
マナのぽつりとした一言に、セトが驚いたように彼女を見返した。
「あ! いえすみません……でも、なんだか新鮮です。セト様にも、こんな一面があるんだなって」
セトは一瞬まばたきをし、次の瞬間には目を細めて小さく息をついた。
「……そう言われたのは、はじめてです。かわいい、などと」
その声には少しだけ照れが混ざっていたが、それを隠すように笑う彼の横顔はどこか柔らかく、普段の神殿での厳格な表情とはまた違っていた。
「慣れない場所で頼りないところを見せてしまって、神官長としては面目ありませんが……こうして笑っていただけるなら、それも悪くありませんね」
その穏やかな言葉に、マナも自然と微笑み返していた。
少し歩いた先、小さな路地の入り口に、花飾りの並ぶ露店があった。軒先に吊るされたリースやドアベルが、風に揺られて優しく鈴の音を奏でている。その中で、ふとマナの視線が止まった。
――それは、バラを模した水晶の髪留めだった。やわらかな紅色が、午後の光にふんわりと染まっている。
「……綺麗……」
思わず漏れた小さな呟き。
するとすぐ隣から、セトの声が返ってきた。
「こういうの、お好きなのですか? ……マナに、よく似合いそうですね」
「えっ? ち、違います! わたしじゃなくて、これ……その……お母さんに、似合いそうだなって……」
言い訳のように口にした言葉は、我ながらぎこちなかった。
「ふふ……そうでしたか。ユナ様に、ですか」
セトは小さく笑ってから、店主に向かって静かに言った。
「この髪飾りを、ひとつもらおう」
支払いを済ませたあと、彼はその髪飾りをそっと手に取り、
「少し、失礼しますね」
そう言って、驚くマナの前に立つと、彼女の髪の一部をやさしくすくい上げる。
「……ほら、こうしてみると、やっぱりあなたによく似合います」
そっと、バラの髪飾りをマナの耳元へ差し込むようにして留めた。
マナの目が驚きと照れでぱちぱちと瞬きを繰り返し、やがて言葉も出ずに小さくうつむいた。
「……あ、あの……ありがとうございます。」
「このまま、つけていてください。とても素敵ですから」
セトの穏やかな声に、マナはただ頷くしかできなかった。
胸の奥が、熱を帯びてくすぐったくて。心のどこかが、ふわりと浮かぶようだった。
――それは、気づいてしまった、甘くて淡い恋の予感だった。
歩きながら、マナはふと、さっきセトに髪留めをつけられた瞬間を思い出していた。やさしい手つき、ふわりと頬にかかった指先の温もり。そしてあの笑顔――。
(……なにを、考えているの、私)
胸がどきどきして、さっきまで自然に隣を歩いていたのに、今はどうにも落ち着かない。
マナはそっとセトの横から少し離れ、ほんの数歩後ろに下がった。
するとその瞬間――
「おや、そこのステキなお嬢さん」
横手の通りから現れた三人の男たちが、マナの方へと歩み寄ってきた。いずれも鍛えられた体躯に、腰には神殿騎士の徽章がついている。
「今から俺たち三人でお茶に行こうって話していたんだけどさ、男だけじゃつまらないじゃない? 君、ちょっと華を添えてくれない?」
「えっ、あ、いえ……あの、困ります、私……これから用事があって……っ」
マナは目を泳がせながら、一歩、二歩と下がる。
「ほんのちょっとだけでいいからさ、ね?」
「君、名前は? いやほんとかわいいね。ここで会えたのも運命かもしれない」
「ねえ、歳はいくつなの? この街の子?」
「ちょ、ちょっと……っ」
矢継ぎ早に話しかけてくる男たちに、完全に対応しきれず、マナの顔は真っ赤に染まっていた。
そのとき――
「……君たち」
静かに、だが鋭く低い声が背後から響いた。次の瞬間、三人のうちの一人の肩に、すっと手が置かれる。
振り向いた騎士が
「なんだお前……」
「俺たちは、このお嬢さんと話してるんだよ!」
と怒鳴りかけたとき、目の前の男の顔をしっかりと見て――
「ひっ……!?」
声にならない声を上げて、一歩引き下がった。
「セ、セト神官長……!」
残る二人も遅れてセトの顔を認識し、顔色を変えて飛びのいた。
「ま、まさか、セト神官長のお連れの方だったとは……っ!」
「……セト様の大切なお方とは知らずに失礼しました!」
セトは眉をひそめ、小さく咳払いした。
「……仕事の合間に息抜きも結構だが、相手が誰かもわからずに馴れ馴れしく声かけるとは、ずいぶんと軽率だな」
セトのその言葉に、自分たちが口説いていた少女をまじまじと見る。
「ああ! あなた様はもしや……」
三人の騎士は血の気を失いながら頭を下げた。
「も、申し訳ありませんっ! 聖女マナ様とは知らず……っ!」
「……俺たち、なんてことを……もう、終わった……!」
がたがたと震える騎士たちは、そのまま逃げるように立ち去っていった。
取り残されたマナは、耳まで真っ赤になってうつむいていた。
「……ごめんなさい、セト様。わたし、ちゃんと断ろうとしたんですけど……」
「いえ。あなたが無事でよかったです。それより……あの神殿騎士たちは、女性に対する振る舞いを学ぶべきですね」
セトはそう言って、静かに微笑んだ。
再び、マナの鼓動が跳ねた。
マナはますます顔を赤らめ、うつむいてしまった。そんな彼女の様子に、セトもほんのわずかに微笑みながら、ふと顔を上げる。
「……あ、この香り……マナ、あそこを見てください」
甘いリンゴの香りが風に乗って流れてくる。
「噴水の近く……お母さんの言っていたアップルパイのお店、あのお店のようですね」
「ええ! 無事任務完了! ですね」
二人は顔を見合わせて、同時に笑う。
ここ数日の張り詰めた心が、ふと緩んだ気がした。
マナは、胸の奥からこみ上げる笑いを隠そうともせず、風に髪を揺らしながら歩いていた。
――こんなふうに心から笑ったのは、いったいどれくらいぶりだろう。
セトと過ごした穏やかな時間は、彼女の中に柔らかな光を灯していた。そしてその隣を歩く彼の姿を思い出すたび、胸が少しだけ痛く、でもあたたかくなる。
(わたし……セト様のこと、好きなんだ)
はっきりと自覚した瞬間、頬が自然と熱を帯びる。
その気持ちはまだ、触れたら壊れてしまいそうなほど淡くて――けれど確かに、マナの中に芽生えていた。
不思議な高揚感を抑えきれず、マナは弾むような足どりで石畳を進みはじめた。
聖女殿への帰り道。夕暮れの空が淡く染まる中、マナの心はやわらかなときめきで満ちていた。




