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53.永遠の欠片

 甘く、微かに風に運ばれるような、どこか懐かしい匂い。心の奥にそっと触れるような温もりが、遠い記憶の扉を優しく叩く。

 

 (……懐かしい……この香り……)

 

 それは、草原を渡る風の匂いに似ていた。陽だまりの下、彼と過ごしたあの季節。笑い合い、泣き合い、何も恐れることなく愛を信じていたあの頃の記憶が、呼吸とともに蘇る。

 頬に触れる、ひとのぬくもり。誰かの手のひらが、柔らかく髪を撫でている。静かに、慈しむように。

 ――鼓動が聞こえる。すぐ傍で、確かに生きていると伝えてくれる鼓動。

 その全てが、胸の奥に染み渡っていく。


 ユナは、ゆっくりと瞼を開いた。

 白い天蓋のかかる寝台。そこに身を沈めていた自分の隣に、彼がいた。


 アルヴァン――。懐かしく、遠く、そして誰よりも大切な存在だった人――。


 彼は、ベッドに腰かけ、目覚めたユナをそっと見下ろしていた。長い睫毛の陰に揺れる深い瞳は、痛みと、愛おしさで満ちていた。

 

 「……目が覚めたか。気分はどうだ?」

 

 その低く落ち着いた声に、ユナは何も返さなかった。ただ、静かに彼の姿を見つめ続ける。

 しばしの沈黙のあと、アルヴァンがぽつりと呟いた。

 

 「……記憶の中で、何度も……君を失ったあの日を繰り返していた」

 

 彼の声は、苦しみと悔いを噛みしめるように低く震えていた。

 

 「君がいない世界で、ただ生き続けることしかできなかった。あのときの後悔から一度も逃れられなかった……のに……また君を、失うのかと……」

 

 胸に秘めてきた痛みが、言葉になるたびに彼の瞳に静かな陰りを落としていく。

 ユナは静かにベッドから体を起こした。

 彼の手が、そっとユナの頬に触れる。その手のひらに、自らの手を添えながら、柔らかく口を開いた。

 

 「……私がすべてを忘れて生きてきた時間……あなたは、そのすべてを忘れられずに苦しんできたのね」

 

 アルヴァンは驚いたように目を見開いた。ユナの声には、かすかに震えが混じっていたが、その瞳には深い哀しみが宿っていた。

 

 「あなたの未来を守りたかった。あなたには幸せに生きてほしかった……だから、たとえ私が命を失ったとしても、それで良いと……そう思っていた。けれど……」

 

 ユナは静かに目を伏せた後、ふたたびアルヴァンを見上げ、そっと言葉を紡いだ。

 

 「私の選択が、あなたを長く深い苦しみに縛りつけてしまったのね……ごめんなさい、アルヴァン。これはきっと――私が背負うべき罪なのね」

 

 その言葉を聞いた瞬間、アルヴァンは耐えきれなくなったかのように身を乗り出し、ユナの身体をそっと、しかししっかりと抱きしめた。 


 「……ユナ……」


 彼の肩が震えていた。呼吸が詰まり、言葉にならない嗚咽が漏れる。静かに流れ落ちる涙が、ユナの髪を濡らしていく。

 

 「……会いたかった……」 

 

 押し殺した声が、胸の奥から零れ落ちた。 

 

 「ずっと、ずっと……君に、会いたかった」 

 

 どれだけ手を伸ばしても届かない夢。何度呼んでも返らない名前。

 

 「けれど――王としての私は、君を望むことすら許されなかった」

 

 王であるという鎧の下で、ずっと疼いていたものがある。果たすべき義務、譲れない誇り、そして癒えぬ喪失の痛み――それらが、静かに心を蝕んでいた。

 

 「それでも……忘れたことなんて、一度もなかった。君がいない日々は、何を手にしても、何を守っても……心のどこかが、空っぽのままだった。

 ずっと、名前を呼んでいた。夢の中で、心の中で、神にすがるように――ただ、君にもう一度、会いたいと……」

 

 その囁きは、十数年分の渇きと絶望の果てに届いた、愛の告白だった。

 ユナはその腕の中で、ゆっくりと目を伏せる。

 

 「アルヴァン……」

 

 胸の奥にあった長い孤独が、溶けるようにほどけていくのを感じながら。

 この一瞬が、永遠であれと――そう願わずにはいられなかった。



 ***

 

 

 どれほどの時間、抱き合っていただろうか。 長い離別を埋めるかのように、互いの存在を確かめ合うように。 ――一秒でも長く、この腕の中にいてほしい。 そんな想いが、二人の胸に満ちていた。

 けれど、永遠にこのぬくもりにすがることはできないと、どこかで分かっていた。

 ユナが、そっと顔を上げる。 その瞳に揺れるのは、未練ではなく、覚悟だった。

 

 「アルヴァン……叶うなら、あなたの隣で永遠を誓いたかった」 

 

 優しく微笑んだ彼女は、しかし次の言葉を少しだけ力を込めて続けた。

 

 「――でも、それはもう過去のこと。私たちにはそれぞれ、守るべき家族がいる。あの頃を思い出すのは……今日で終わりにしましょう」

 

 その言葉は、剣より鋭く静かに、アルヴァンの胸に突き刺さる。

 

 脳裏に浮かんだのは、リリアナの顔だった。 あの娘は、母親に似て誇り高く、王族としての矜持を強く抱く。時にそれは、周囲を見下すような態度となって表れることもある。 だが――それでも、自分の血を分けた娘だ。 どれほど歪んでいようとも、父として見捨てることなどできない。 幽閉されたレイナを見て、不安と怒りに揺れているはずだ。 このまま放っておけるはずがなかった。

 

 そして、ユナにもまた――愛おしい娘、マナがいる。 異世界に呼ばれた聖女として、人知れず戦い続ける彼女の母親として。それに、ユナには元の世界に帰れば夫がいるのかもしれない。 自分が立ち入るべきではない現実が、確かにそこにはあるのだ。

 

 過去に縋るわけにはいかない。 守るべき者がいるのなら、自分たちはそれぞれの場所で歩まねばならない。

 アルヴァンは静かに目を伏せ、ユナを抱きしめていた腕をゆっくりと緩めた。

 ぬくもりが名残惜しく指先に残る。だが、その手を放すことこそが、今の自分にできる唯一の誠実だった。

 

 「……そうだな。ありがとう、ユナ」

 

 その声は小さく、震えていた。


 ユナは静かな呼吸をひとつ整えると、そっとベッドから足を下ろし、立ち上がる。


 「……記憶が戻って、やっと少しずつ、繋がってきたの。

  結界石のことも……もしかしたら、私にも力になれることがあると思う。だから、しばらくは――私なりに、調べてみるわね」


 アルヴァンは静かに頷いた。

 

 「さあ、――マナのところへ帰らなくちゃ」

 

 ユナは微笑んだ。どこか切なげなその笑みは、アルヴァンの胸に深く残る。

 

 「きっと……あなたの娘も。……リリアナも、あなたを待っているわ」


 言葉はやさしく、しかし濁すことなく、まっすぐに伝えた。

 アルヴァンは何も言わず、その背を見送った。 ユナが一歩ずつ遠ざかっていくたびに、自分の腕の中から、確かに何かが零れていくのを感じた。

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