54.告
聖女殿の扉を開けると、室内には柔らかな光が差し込んでいた。
「お母さん……!」
マナが勢いよく立ち上がり、ユナのもとへ駆け寄る。 その瞳には涙が揺れていた。
「痛いところはない? 怪我もう平気? 王宮の癒しの間で静養してたって聞いてたけど……戻ってきて大丈夫なの?」
ユナは、そんな娘に優しく微笑みながら、その頬に軽く手を添えた。
「平気よ、もうどこも痛くない。マナがいてくれたから――あなたの光が、救ってくれたから。ありがとう、マナ」
マナは少しだけ目を潤ませながらも、安心したように、こくんと頷いた。
そのやり取りを見守っていたセトが、ひと呼吸置いてユナに歩み寄る。
「……ご無事で何よりです、ユナ様。本当にお身体の方は、もう……?」
ユナはマナの手をそっと包んだまま、セトの方へ目を向けて微笑む。
「ええ、大丈夫。お気遣いありがとう、セトさん。……少し、二人に話したいことがあるの」
セトはユナの瞳に今までとは違う何かを感じ、わずかに表情を引き締め、静かに頷いた。
「リリー、お茶を」
「はい、すぐにお持ちします」
リリーは手早く香り高い紅茶を準備し、静かにテーブルへと置いた。 三人が席につくのを見届けると、彼女は軽く一礼して、静かに部屋を後にした。
短い沈黙のあと、ユナがそっと唇を開いた。 その声音は穏やかでありながら、どこか深く決意を湛えていた。
「……セトさんは、もう気づいていたかもしれないわね」
その言葉に、セトはわずかに頷く。
ユナはマナの方へ体を向け、娘の瞳をまっすぐに見つめた。
「マナ。……あなたに、ずっと話せなかったことがあるの。」
「お母さん……? どうしたの……なにか、あったの?」
マナが不安そうに目を見開き、声を震わせる。 ユナはその手をそっと握り、ゆっくりと息を吐いた。
「私ね……自分の記憶の中に、ぽっかりと穴が空いている時間があるの。ちょうど今のマナ位の歳の頃から、何年か……空白の時間が」
マナは驚いたように目を見開いた。けれど、それ以上は何も言わず、ただ静かに母の言葉を待った。
「当時は、自分でもよくわからなかった。病気か、何か強いショックを受けたせいかもしれないって、ずっと思っていたの。けれど――」
ユナはそっと胸元に手を当てる。そこに、語り切れぬほどの記憶が眠っているように。
「……この国に来てから、ずっと不思議だったの。初めて見るはずの景色なのに、どこか懐かしいような……説明のつかない感覚に襲われることがあって」
ユナの瞳が、遠い過去を見つめるように細められる。
「それだけじゃないの。自分でも知らないはずの知識や……気づけば、誰かを守るために身体が勝手に動いていたこともあった。まるで、誰かの記憶をなぞるように」
そこまで言って、ユナはふとマナの瞳をまっすぐに見つめた。
「……マナ。あなたが、私の命を救ってくれた時にね」
マナがこくんと頷くと、ユナは静かに言葉を重ねた。
「あの時……あなたの光に触れた瞬間、失われた記憶が次々にあふれだしたの。あの“癒しの光”に導かれるように――」
ユナはひと呼吸おいて、はっきりと告げた。
「思い出したの。……私が、この国に来るのは初めてじゃないっていうことを……そして、そのとき自分が何て呼ばれていたかも……」
ユナはほんの少し、目を伏せた。
そして、長く張りつめていたものを解くように、小さく息を吐く。
「――聖女サクラ。私は、かつてこの国でそう呼ばれていたわ」
マナの目が、驚きに揺れる
「……マナ。あなたもきっと、聞いたことがあるでしょう? この国で今も語られている、“聖女サクラ”の物語を」
マナは戸惑いながら、ゆっくりと頷いた。
「……ラーデンリアを救った、あの戦う聖女……?」
ユナは一瞬、視線を落とす。 そして、再びマナの目をまっすぐに見つめ返した。
「……そう。 その“聖女サクラ”は――かつての私なの」
しん、と静寂が降りた。 風も音も、何もかもが遠のいていくような、奇跡にも似た沈黙。
マナの目が大きく見開かれ、唇がわずかに震える。声にならない思いが胸の奥で絡まり、言葉が出てこない。
「……ユナ様、全て思い出されたのですね……」
セトの問いかけもまた、静かに息を飲むような声だった。
ユナは頷いた。
「ええ……あなたは、気づいていたのよね……」
言葉を継ぎながら、ユナは遠い記憶を思い返す。
「二十年前、私はこの世界に召喚され、“聖女サクラ”として生きた。五大神殿の結界石に魔力を注ぎ、祈りの光で人々を守り、そして最後には、自らの命と引き換えに“黒帝ヴァルザ”を封じた。
……それで、すべてが終わったはずだった、それなのに……。私は記憶を失い、元の世界で、何もかも忘れて生きてきたのよ」
「お母さんが、私と同じようにこの世界に聖女として召喚されて、人々を救った聖女サクラだった……。そんなことって……。なら、あの時私を助けるために放った光は……」
マナの脳裏に、かつて図書の間で目にした書物の一節がよみがえる。
“サクラは、結界石の魔力低下を受けて五大神殿を巡り、各地に力を注いでいった。
魔物との戦闘では常に最前線に立ち、剣を取り――恐れることなく立ち向かった。
癒しの光は、静かに傷を包み、疲れた心に安らぎを与えた。それはまるで夜空に寄り添う月の光のように。
そして――断罪の光は、燃えるような輝きで魔を貫き、すべての悪を焼き尽くす太陽のごとき裁きの矢となった。”
その文章の余韻が、胸の奥に静かに広がる。
マナはゆっくりと顔を上げ、母の瞳を見つめる。
そこに映っていたのは――紛れもなく、自分の母だった。
けれどその瞳には、これまで知っていた“優しい母”とは違う、強さと覚悟をたたえた光が宿っていた。
マナは、まるで夢を見ているような顔でユナを見つめた。
けれどその瞳は確かに揺れ、心の奥底で何かが大きく動いていた。
「本当ならお母さんは、魔王との戦いで命を落とす……はずだったの?」
その言葉には、戸惑いと、不安が滲んでいた。
ユナは静かにうなずき、マナの手を包むように握りしめた。
「そう……本当はヴァルザを、魔王を封印するとき、私は消滅するはずだった。なぜ命が助かって、なぜ元の世界に戻って生きて来たのか……それは今の私にも分からないの。そして、マナ、あなたがこの世界に召喚されたことも、偶然とは思えないわ……。私の知らないところで何かが動いている、そんな気がしてならないの」
マナの瞳が大きく揺れた。
その胸に、言いようのない思いが込み上げる。
あの“聖女サクラ”が母だったという衝撃。
でも、それ以上に――
「お母さんは命をかけてこの国を守った、聖女サクラ……でも、お母さんが誰であっても……どんなすごい力を持っていても……
私にとっては、ずっと“大好きなお母さん”に変わりないよ」
言葉にした瞬間、涙があふれた。
けれどマナは泣き顔を隠そうとはせず、まっすぐに母の瞳を見つめ続けた。
ユナはそっと微笑み、マナを優しく抱きしめた。
「ありがとう、マナ。……私が誰であっても、あなたを産み、育ててきたこと、あなたの母でいられること――それが、私のいちばん大切な誇りよ」
母と娘、そのぬくもりは、どんな過去よりも確かに、いまを結んでいた。
「セトさん。今の私なら、結界石の異変について、少しは力になれるかもしれないわ。 記憶を取り戻した今、調べたいことがたくさんあるの。
そのことはアルヴァン陛下にもお伝えしてあるわ。もし差し支えなければ、各神殿からの結界石の記録、あとで私にも見せていただける?」
セトは短く目を伏せ、それから静かに頷いた。
「もちろんです、ユナ様。……私たちも、あなたの力を必要としています」
そう言って、ふと少しだけ表情をやわらげる。
「それと――できれば、“セトさん”ではなく、“セト”と呼んでいただけますか。今のあなたに、さん付けで呼ばれるのは、その、恐れ多いというか……」
ユナは少し肩の力を抜いて、やさしく笑った。
「今の私は、聖女ではないのだけれど……そう言うなら。じゃあ、これからは“セト”と呼ばせてもらうわね」
そう言って、カップをひと口傾ける。
香り立つ紅茶のぬくもりが、胸の奥にじんわりと染み込んでいく。
――失われていた過去も、胸に秘めてきた真実も。
すべてを受け入れた今だからこそ、進める道がある。
ユナの瞳には、静かに、けれど確かな決意の光が宿っていた。




