52.背影
※流血表現あります、苦手な方はお気を付けください
カリオンの刃は、ユナの胸元に容赦なく突き立てられた。一度、二度。赤い血が噴き出し、白い衣を深紅に染めていく。彼女の口元からも血があふれ、息をすることさえままならなかった。
拘束が解かれるまでもなく、人々はその凄惨な光景に言葉を失い、動けずにいた。
ユナの体が崩れ落ちると同時に、
「ユナァアアアアッ!!」
アルヴァンが咆哮のような叫びをあげ、剣を抜いてカリオンに向かって走る。
セトがとっさにユナとマナを庇うように立ちはだかり、魔法で氷の壁を作り出す。
三度目の刃が氷壁にはじかれた瞬間――。
アルヴァンの剣が、稲妻のように閃いた。
カリオンの右腕が、鮮やかに切断され、空を舞った。
「マナ、ユナ様を……っ!」
セトが叫びながら、すぐさま癒しの魔法をユナに施す。
だが止まったのは血だけだった。
ユナの命の灯は、今にも消えかけていた。
「お母さん、お母さん……お願い、目を開けて……いやああぁぁ」
マナはユナを抱きかかえ、声にならない声で泣き続けた。
「しっかりしろ! 聖女マナ! 癒しの力を使え! ユナを死なせるな!」
アルヴァンの叫びは、あまりにも残酷だった。
(どうして……どうやって使えばいいの……わからない、どうしよう)
頭が真っ白になり、どうやって癒しの力を使えばいいのか思い出せない。
ただ、お母さんが死んでしまう――その恐怖だけが、全身を支配していた。
「マナ! どうか落ち着いて!」
セトの声が響いた。
「ユナ様は、まだ息があります! 助けられるのは、あなただけです!
大丈夫です……あなたなら出来る! ユナ様を助けたいと、その思いで心を満たすのです」
「あぁ……セ……セト様……」
その言葉に、マナの瞳がわずかに揺れた。震える手を胸の前で組み、深く祈りを捧げる。
「どうかお願い……お母さんを助けて……」
マナが祈り始めると、静かに、優しい月の光のような輝きが、マナの手のひらから溢れ出した。
神聖な癒しの光が、ユナの身体を包みこむ。
ゆっくりと、ユナの胸の傷が癒えてゆく。
浅くなっていた呼吸が戻り、ユナの表情が、徐々に穏やかさを取り戻していくのを見て、セトはほっと息を吐いた。
「……マナ、もう大丈夫です。ユナ様の傷は塞がり、呼吸も戻ってきています」
だが、マナはなおも両手を重ねたまま、祈りの姿勢を解こうとしない。
その肩は震え、額には汗が滲んでいる。
「……もう、十分です。ユナ様の命は――助かりました」
静かに、セトがそっと彼女の手に触れた。
その瞬間――
「こ……怖いんです……」
押し殺すような、かすかな声。
それは、張り詰めたままの心が悲鳴を上げるような――震える声だった。
祈りを解くことさえできないほどの恐怖が、少女の声に滲んでいた。
「祈りを止めたら……お母さんが死んでしまうんじゃないかって……ああぁ……うぅ……怖いの……」
マナはそう言って、肩をすくめるように震わせた。
祈りを捧げたままの手はこわばり、涙が堰を切ったように頬を伝って落ちていく。
嗚咽をこらえながら、それでも手を離せずにいる――その必死な姿に、セトの胸が締めつけられた。
セトはたまらず、そっと手を伸ばすと、横からその肩に腕を回し、マナをそっと抱き寄せた。
細い身体が、自分の胸元で小さく震えている。
どれほど強く、彼女がこの命を繋ぎ止めようとしていたのか……その想いが、ひしひしと伝わってきた。
「もう大丈夫。あなたの大切な人の命は、あなたが守りました。繋いだ命を、信じてあげてください。さあ、その手をゆっくり……解いて」
その穏やかな声に導かれるように――
張り詰めていたマナの身体から、徐々に力が抜けていく。
そして、彼女の手元に灯っていた淡い光が、そっと、静かに消えていき、マナはそのまま力尽きたように倒れ込んだ。
セトはしっかりとその身体を抱きとめ、優しく支えた。
* * *
混乱と静寂が交錯する空気の中、どこか遠くで、カリオンの呻き声が微かに響いていた。
アルヴァンはゆっくりと歩み寄り、まだ意識の戻らぬユナの身体を静かに抱き上げる。
「陛下! このような場で……王が、公然と他の女を抱き上げるなど――王妃の立場を、何だとお思いですか!」
レイナの絶叫が響く。その顔は怒りに歪み、唇は憤怒に震えていた。
「黙れ!」
アルヴァンの怒声が場を圧した。
「お前は……自分のしでかしたことが、どれほどの罪か分かっているのか!」
声を荒げながらも、アルヴァンの瞳には深い悲しみと絶望が宿っていた。
「もう、沢山だ……形だけでも家族の形を保ちたかった。だが、もう……無理だ」
アルヴァンはこれまで見せたことのない冷たい目でレイナを睨みつけ、騎士たちに命じた。
「レイナを拘束しろ。聖女選定という神聖な儀式を偽りで穢した、その罪は重い」
「な……何ですって……?」
レイナの目が大きく見開かれる。まるで自分が今、現実ではない何かを聞かされたかのように。
「この私を……拘束ですって? ラーデンリア王妃たるこの私に、そんな真似を……っ! 全てカリオンが勝手にやったことよ、私は関係ないわ!」
声を荒げ、狂ったように叫ぶレイナだったが、民衆の視線はすでに彼女に背を向けていた。冷ややかな眼差しが、かつての“気高き王妃”を突き刺す。
「リリアナ様を偽の聖女に仕立て上げたのか……」
「もう終わりだ。レイナ様は……」
ざわめきの中、騎士たちが静かに、だが毅然とレイナへと歩を進めた――その時。
「――待たれよ」
重厚な声が場の空気を裂くように響いた。
アーヴェルト侯爵がゆっくりと前に出る。威厳ある佇まいと、燃えるような視線をたたえたまま、彼は王の前に進み出た。
「陛下、あのカリオンの錯乱じみた言葉だけをもって、我が娘を罪人扱いなさるおつもりか! 正気を失った神官のたわごとを鵜呑みにするべきではないでしょう。
レイナが何をしたにせよ、王妃としてこれまで国に尽くしてきたのは事実。誤解や思い違いもあるでしょう。真偽が明らかになる前に、こうして人前で辱めるなど……それは陛下、あなたご自身の品位をも損なう行為ではありませんか」
その言葉に、周囲がざわめいた。だがアルヴァンは沈黙を保ったまま、ゆっくりと侯爵を見据える。
「……その懸念、もっともだ。だが、狂気の中にいたとはいえ、カリオンの口から語られた事実の断片は、あまりに重大だった。
王家に属する者として――調査が終わるまで、彼女を自由にはしておけない」
アルヴァンの声は冷静だったが、揺るがぬ決意がその奥にあった。
「処罰を急ぐつもりはない。ただ、真実を確かめるために……レイナは静謐の間に幽閉する」
アーヴェルト侯爵は表情を崩さなかったが、眼差しの奥に怒りと焦燥の色がわずかに揺れる。
騎士たちは再び進み、レイナの腕を取った。
「離しなさい! 私を、王妃であるこの私を拘束するだなんて――正気なの!? リリアナこそが聖女なのよ! この国に選ばれし血を継ぐ、唯一の存在なのに……! それを否定するなんて、愚かにもほどがあるわ!!」
その声は次第に遠ざかり、やがて消えていった。
混乱の中で、アルヴァンは誰の言葉にも耳を貸さず、ユナを抱きかかえたまま、その場から立ち去っていった。




