44.その名を
午後の光が柔らかく差し込む部屋には、穏やかな空気が流れていた。
ルカが椅子の背にもたれながら、真剣な面持ちでベッドの上のユナを見つめる。
「……もう、身体の方は大丈夫か?」
その問いかけに、ユナは小さく頷いた。
「ええ……まだ少し頭が重たいくらいで、でも他はもう平気です。心配かけてしまって……ごめんなさい」
「謝ることなんてないさ。無事でよかった」
ルカの声はどこか照れを含み、いつもの飄々とした調子が影を潜めていた。
そんな二人を見つめていたマナが、ふと前に出る。
「……母から、色々とお話を伺いました。ルカ様、母が大変お世話になったそうで……本当に、ありがとうございます」
深く頭を下げるマナに、ルカは少し目を見張り、気恥ずかしそうに視線を逸らした。
「オレは別に……たいしたことはしてないよ。ただ、無茶だけはしないように、って見ていただけだ」
その瞬間、扉が静かに開いた。
現れたのは、王――アルヴァン・グランディア。
室内の空気が一瞬で引き締まる。マナが思わず姿勢を正し、ユナがわずかに息を呑んだ。
「アルヴァン陛下……」
マナの声が緊張で震える。
「ルカ」
アルヴァンの呼びかけに、ルカは静かに頷いた。
「……オレはそろそろ失礼するよ。」
そう言って、ルカはユナに一瞥を送り、そっと部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに遠くに聞こえた。
残されたのは、ユナとマナ、そしてアルヴァン。
「私は――ラーデンリア王国の王、アルヴァン・グランディアだ……」
(この国の王様……?)
ユナはベッドから降りようとしたが、アルヴァンが手を上げて制した。
「座ったままで構わない」
そして、ゆっくりとユナに視線を向ける。
「……名を聞いてもいいか」
ユナは一瞬戸惑いながらも、まっすぐに彼を見返した。
「……あの、ユナ・イシガミと申します」
その名を聞いた瞬間、アルヴァンの瞳が揺れた。
しばしの沈黙。空気が張り詰める。
「……ユナ・サクラではないのか?」
その問いに、ユナの身体がわずかに震えた。
「……え?」
驚きに目を見開いたまま、ユナは言葉を探す。
「……たしかに、昔は“佐倉ユナ”と名乗っていました。でも……両親の離婚で、姓が“石神”に変わったんです」
「えっ……お母さん、そうだったの?」
マナが思わず声を漏らす。
ユナはゆっくり頷いた。
「……マナには話す機会がなかったわね」
再びアルヴァンの視線がユナに注がれる。
ユナが戸惑いながら問い返す。
「どうして、あなたがそんなことを?」
その問いに、アルヴァンはふっと目を伏せ、小さく息を吐いた。
「……そうか……やはり、君は“サクラ”なのか……」
その声には、どこか確信と、深い安堵が滲んでいた。
――君と過ごした最後の夜を、俺は今でも鮮明に覚えている。
夜の静寂に包まれた部屋、窓から差し込む月光を背に、君は言った。
「明日、ヴァルザを封印すれば……結界石が力を取り戻して、このラーデンリア全土が守られる。魔物の脅威は、もう……終わるのよね」
「ああ。やっと、この国を魔の手から救える。それも……すべて、君のおかげだ」
「違うわ。私だけじゃない。この国を守ろうとする、すべての人たちの想いが力になるの」
その言葉に、俺は微笑みを返し、君の手をそっと取った。
「……サクラ。明日、すべてが終わったら――」
君と、ただ静かに生きていきたい。
その想いが、胸の奥に溢れていた。
「……君と、残りのすべての時間を共にしたい。朝を迎える度、君の声を聞き、夜が来るたび、君の隣で眠る……そんな日々を生きていきたい」
「アルヴァン……」
愛している。そう言って唇を重ねたあの瞬間、俺はすべてを手に入れたように感じていた。
口づけの後、君は少し照れながら言った。
「実はね……“サクラ”って、私の姓なの」
「……なんだって?」
俺の驚いた顔に、君はふふっと笑った。
「最初に挨拶したとき、姓で呼ばれて、それが定着しちゃって……でも、本当は“ユナ”っていうの。あなたに、私の名前を呼んで欲しくて……」
「ユナ……ユナ……。いい名前だ」
その名を口にするたび、胸の奥が温かく満たされた。
「この名前は、俺だけの宝物だ」
そう言って、再び君を抱きしめ、囁いた――
「……愛している、ユナ」
その時の君の微笑みは、優しくて、どこか切なかった。
朝が来た時、もう隣に君はいなかった。
カリオンから知らされた真実――
一人で黒帝ヴァルザの元へ向かったと。
その姿を、誰にも追わせるな。それが君の最後の願いだったと。
間に合わなかった。
ただ、遠くから。
空を割るような“断罪の光”が天を貫いたのを、俺は、夢のように見ていた。
その光が、君の最後だった。
アルヴァンはふと、震える指でそっとユナの手を取る。
「……ユナ……」
その名を口にした瞬間、ユナは戸惑いながらも、彼の瞳を見つめ返した。
(――この人に、遠い昔に会ったことがあるような気がする。思い出せない……でも、この瞳から目が離せない……)
見つめ合う二人に気圧されたように、マナがそっと口を開く。
「あっ……あの、私……セト様に呼ばれていたのを思い出しましたので……失礼しますっ」
どぎまぎした様子で頭を下げると、マナはそそくさと部屋を出ていった。
静寂が落ちる。
アルヴァンは低く呟いた。
「……俺を、思い出せないのか……」
ユナははっとして視線を落とし、困ったように眉を寄せた。
「……すみません。でも……あなたのこと、どこかで……」
言い淀むユナに、アルヴァンは優しく頬へ手を添える。
「そうか……いや、いいんだ」
どこか寂しげに笑うその表情を見つめるうちに、ユナの胸の奥がきゅうと締めつけられる。
(――この人の笑顔が、こんなにも胸を痛めるなんて……。
何か、とても大切なことを忘れている……そんな気がする。)
ふいに、頬を伝って、一筋の涙が零れ落ちた。
「……っ」
その涙に、アルヴァンの瞳が見開かれた。
「……ユナ……」
息を呑むように名を呼んだ次の瞬間、衝動のように彼女の肩を引き寄せ、強く抱きしめる。
ユナは戸惑いを抱えたまま、そっと目を伏せた。
けれど――このぬくもりには、どこか覚えがあった。
遠い昔、夢の中で触れたような、懐かしい気配。胸の奥に、微かなざわめきが広がっていく。
しばしの沈黙の中、アルヴァンはユナを抱きしめたまま、何かに抗うように深く息を吐いた。
「……すまなかった、ユナ」
その手が離れる瞬間、彼の指先が名残惜しげに彼女の髪をすくった。
ユナは涙に濡れた頬のまま、黙って彼を見つめていた。
アルヴァンは一歩、後退るようにして視線を逸らす。
「……生きていてくれて、よかった。それだけで……十分なはずなのに」
その声には、言葉にできぬ想いが滲んでいた。
「君を前にすると……心が揺れる。――いけないと、わかっているのに」
ユナは小さく瞬きをし、視線を伏せた。
「……すみません、あなたのこと、何も……思い出せなくて……私……」
彼女の声は控えめで、どこか戸惑いを含んでいた。
アルヴァンの瞳がわずかに揺れたが、すぐに静かに背を向ける。
「……君を忘れたことなんて、一度もなかった。でも、それを抱きしめる資格はもうない」
その言葉を残し、アルヴァンは扉へ向かい、振り返ることなく部屋を後にした――。




