40.月夜の風と濁った執着
昼間の喧騒が嘘のように、静けさが回廊を包んでいた。
月光に照らされた中庭の花々が、夜露に濡れて静かに揺れている。
マナはひとり、石造りのベンチに腰を下ろしていた。
母はまだ目を覚まさない。けれど、リリーがついてくれている。
だからこそ、少しだけ外に出た。
夜の風が、胸に溜まったものを運んでくれる気がして。
見上げた空には、息をのむような星の海が広がっていた。
無数の光が瞬いている――それはどこか、遠くにいる“誰か”の願いのようでもあった。
「……綺麗……」
ぽつりと呟いた声が、夜の庭に静かに溶けていった。
そのとき――足音がひとつ、控えめに響いた。
「こんな時間に……どうしましたか?」
振り向くと、月を背に立つのはセトだった。
夜風に青緑の髪がわずかに揺れている。
白い衣をまとったその姿は、星明かりの中でどこか夢のように映った。
「セト様……」
マナは少し照れたように視線を逸らす。
「色々なことがありすぎて、頭がぐるぐるしてしまって……夜の風にあたりたくなったんです」
セトは静かに頷くと、ベンチの隣にそっと腰を下ろした。
「……そうですね……リリーや神殿の者たちから話は聞きました。私が留守にしている間、大変なことがありましたね」
彼の声は、いつもと同じ落ち着いた音色――けれど、そこには深い悔いと、あたたかな敬意が滲んでいた。
「それでも、あなたは自分の力でそれを乗り越え、大勢の人を癒した。
今日、あなたの癒しで救われた者たちは、皆口々に“聖女様に救われた”と話していましたよ」
セトが静かにほほ笑むと、その眼差しには微かに光が宿っていた。
「……本当に、一人でよく頑張りましたね」
その言葉に、マナの胸がじんと熱くなった。
「ありがとうございます……」
小さく呟いてから、彼女は少し泣き笑いのような顔でふと笑った。
「私……“偽物の聖女”って呼ばれて、牢に入れられた時、すごく怖かったんです。
でも……セト様さえ帰ってきてくれたら、きっとここから出してくれるって、ずっと信じていました」
その笑顔は、夜の星よりも、何よりも眩しかった。
セトは一瞬、言葉を失った。
胸の奥にずっとあった、言葉にできない何か――
あの時から芽生えて、ずっと形を成さなかった想いが、
今、ゆっくりと確かに、輪郭を得ていく。
(……この人を、守りたい)
そんな感情が、夜の静けさの中にそっと灯った。
そのとき、マナの膝の上にちょこんと現れた小さな影。
それは一匹のイタチ――カグヤが、マナの袖に顔を擦りつけるようにして甘えていた。
「これは……かわいいですね。イタチ、ですか?」
セトが目を細め、柔らかく問いかけた。
「はい。この子、とてもかわいくて……そして強い子なんです」
マナが微笑みながら答える。
「もう一つの姿があって、その姿になると、とっても強くなるんです。今日の、あの魔物との闘いの中で……リリーさんと私を、その力で守ってくれました」
セトは一瞬目を見開いた。
「……まさか。魔獣?」
「はい、リリーさんもこの子のこと、魔獣かもしれないって言っていました。首に三日月のような模様があるから、私、“カグヤ”って名前を付けたんです」
セトは小さくふふっと笑い、目を細めた。
「なるほど……魔獣と契約なさったのですね」
「えっ?」
「魔獣はめったに人前に姿を現しません。しかし心を許した相手の傍からは離れない。マナから名前を貰ったうえで、そばを離れないということは……この子があなたとの契約を承諾したということになります」
「契約……? えっと、つまりこの子が、私と一緒に居たいって、思ってくれているってことですか?」
驚くマナの頬が嬉しそうに緩む。
「ふふ、あなたは凄い方ですね、マナ」
セトは優しく微笑み、そして、そっと手を伸ばした。マナの髪に触れ、優しく撫でる。
細くて柔らかな髪が、指先にふわりと絡む。
彼女は少し驚いたように瞬きをしたが、すぐに目を細めた。
セトの手の感触が、マナの心にじんわりと沁み込んでいった。
星が、ゆっくりと瞬いて、空は静かで、どこまでも澄みわたっていた。 そして二人の間にも、言葉では語りきれないやさしい時間が、静かに流れていた。
***
マナとセトが並んで座るベンチから、少し離れた柱の陰。
ひときわ濃い影の中に、嫉妬に濁った瞳が光っていた。
リリアナ・グランディア。
その手はぎゅっとドレスの裾を握りしめ、紅い唇をかすかに震わせていた。
(どうして……!)
その問いが、頭の中を何度も駆け巡る。
牢に入れられ、神殿中の信用を失ったはずの“偽の聖女”――マナが、再び人々から“聖女様”と呼ばれている。
あの光。あの癒し。
自分が何年もかけて積み上げてきたものを、一夜にして塗り替えるような力。
(あんなの……おかしいわ。私は……私のほうが……)
リリアナは思い出す。
あの場で癒しの力を使い、自分は魔力切れで倒れたのだ。
恥をかいたのは自分。その隙に、マナが輝きをさらっていった。
まるで、舞台の主役を奪われた役者のように。
なのに――
セトが、そんな彼女を見て、微笑んで、
そして――その髪に、触れた。
彼女の髪を、優しく、愛おしそうに。
リリアナの心の中で、何かがぶちりと音を立てて切れた。
(やっぱり……セト様も、あの子に……!)
視界が赤く染まるような気がした。
このままでは、何もかもを失ってしまう――そんな焦燥と怒りに背を押されるまま、リリアナは踵を返した。
***
大神官の間。
重く閉ざされた扉を押し開け、リリアナは一気に駆け込む。
「カリオン様!」
冷たい燭台の光が揺れる中、室内は静まり返っていた。
その奥、膝をついたままのカリオンが、何かを呟いている。
「カリオン様? 聞こえていらっしゃるのでしょう? あの子――マナは、“偽の聖女”だったはずですわ。それなのに今さら、“本物”のように扱われ、人々の崇敬を集めているなんて……滑稽ですわね。」
その声にも、カリオンは顔を上げない。
彼はただ、虚ろな目で床を見つめ、ぶつぶつと繰り返していた。
「……サクラ様が……生きていた……まさか……こんな……ことが……
神よ……私の罪を……お許しに……ならないのですね……
これは……罰……裁き……私を……私を裁くために……彼女を……!」
ひどく乾いた笑いが漏れた。
その目は正気と狂気の境界で揺れていた。
「さ……サクラ様……ああ……! あの光は……まぎれもない……あのときと同じ……」
リリアナは、わずかに後退る。背中に冷たい汗がにじんだ。
「……なにそれ……何を言っているの……」
カリオンの呟きは止まらない。
「罪を……消せない……私は……あの日、あの人を――」
「もういいわ!」
リリアナの声が鋭く響いた。
「お母様なら……お母様なら、きっとまた何とかしてくださるわ!」
踵を返すようにしてリリアナは扉へ向かった。
その足取りは迷いなく、だが目の奥に燃えるのは――
もはや理屈でも正義でもない。
ただ一つ、「マナを絶対に許せない」という、黒く濁った執着だった。




