39.祈りが動くとき
その様子を、遠くから見つめる男がいた。
ユナたちから少し離れた石畳の向こう――
戦いの熱がまだわずかに残る、沈黙の広場の縁に、王宮の近衛兵騎士たちの影が列をなしていた。
その中で、ただ一人、まるで時を忘れたように動かず立ち尽くす男の姿がある。
黒髪を風に揺らし、剣も盾も下ろしたその男――
ラーデンリア王、アルヴァン・グランディア。
彼の瞳は、ただ一人の女性に釘付けになっていた。
ダークブラウンの髪、傷ひとつない白い頬。静かに眠るその姿。
聖女マナと、神官たちに囲まれる中、彼女はゆっくりと担がれ、神殿へと運ばれていこうとしていた。
アルヴァンの唇が、かすかに動いた。
「……サクラ……なのか……まさかっ……」
震えるような息が漏れる。
その名を呼んだ瞬間、彼の中で何かが砕けた。
もはや彼の耳には、周囲の騎士たちの声も、救護に駆けまわる神官たちの掛け声も届いていなかった。
ただ、彼の記憶の底で今も燃え続けている、聖女の姿だけが鮮烈に目に焼きついていた。
心臓の鼓動が耳に響く。
足が、動かない。
踏み出そうとしても、重い何かに縛られているようだった。
(あれは夢か……)
何度も自分に問いかけた。
けれど、答えはない。ただ、胸の奥からこみ上げてくるのは――確信にも似た痛みだった。
“あの光”を、自分は知っている。
“あの祈り”を、この胸で感じたことがある。
そして……何度も夢の中で呼び続けた愛しい人の名前……。
「サクラ……」
彼女が生きている。
そんな奇跡を信じるには、時があまりに経ちすぎていた。
――なのに。
なぜだ。心が“彼女だ”と叫んでいる。
(……君が……帰ってきた……)
その思いが頭を支配し、言葉にならない衝撃が体を貫いていた。
彼女が、サクラが、静かに神官たちに運ばれていく。
遠ざかる姿を、アルヴァンはただ――何もできず、何も言えず、見送っていた。
駆け寄りたい衝動に体が震える。
名を叫びたいのに、喉が固く塞がって声が出なかった。
「……なぜ……今になって……」
息のようにこぼれたその言葉に、答える者はいない。
ただ、彼の視線の先で、彼女の姿が――静かに遠ざかっていく。
時が止まっていた。十数年の祈りが、未だ信じられぬまま、目の前でゆっくりと動き始めていた。
***
セリオス神殿の静かな一室――
窓から差し込む茜色の夕陽が、白い天幕越しに穏やかに揺れている。
寝台に横たわるユナの表情は穏やかで、まるで深い夢の中にいるようだった。
そのすぐ傍らに座るマナは、母の手をそっと握りながら、じっとその寝顔を見守っていた。
頬にはまだ涙の痕が残っていたが、その目には静かな強さが宿っていた。
そんなマナの膝の上に、ふわりと柔らかな毛並みの小さなイタチが飛び乗る。
それはマナがかつて助け、今では彼女の傍を離れない魔獣――カグヤだった。
カグヤはくるりとマナの膝の上に身体を丸め、ピタリと寄り添うようにして鼻先でマナの手をつつく。
「……カグヤ」
マナが囁くと、カグヤは小さな鳴き声を一つあげた。まるで「大丈夫」と伝えるかのように。
「優しい子ね……」
マナはカグヤの背を撫でながら、小さく微笑んだ。
「……あの時、守ってくれてありがとう。リリーさんのことも、私のことも……」
カグヤはくるりとマナの手に頭を押しつけ、その体温でマナの冷えた心をそっと温めてくれた。
静寂の中、温かさがマナの胸に灯る。
トントン、と控えめなノックの音が部屋に響いた。
「マナ様、お茶をお持ちしました」
静かに扉が開き、リリーがトレイを抱えて入ってくる。
淡い香りの湯気がふわりと室内に広がり、張り詰めていた空気がわずかに和らいだ。
「ありがとう、リリーさん……」
マナは母の手を名残惜しそうに離し、カグヤを抱きテーブルの椅子へと向かった。
リリーが静かにお茶を注ぎ、微笑みながら言う。
「マナ様……あんなことがあった後です。きっとお疲れでしょう。少しでもお身体を休めてください。ずっと無理をされていて……このままでは、ご自身が倒れてしまいます」
「……リリーさん、でも不思議と全然疲れを感じてないんです。 でも、私を心配してくれる気持ち、本当に嬉しいです」
マナは湯気の立つカップに口をつける。
少しだけ、肩の力が抜けた気がした。
リリーは、一瞬言葉を選ぶように視線を落とした後、そっと口を開く。
「……マナ様。お母様に、またこうして会えて、本当に……よかったですね」
マナは、そっと視線をリリーに向けた。
「セト様たちの話によれば、なぜお母様がこの世界にこられたのか――まだ、明確な理由は分からないそうです」
そして、ほんのわずかにほほ笑んで、言った。
「でも……私は思うのです。たとえ理が通らなくても、母の愛が――その想いが、奇跡を呼んだのではないかと」
マナは、一瞬目を見開いた。
それから、ほんの少しだけカップを置いて、胸に手を当てた。
「……母の愛……奇跡……」
ぽつりとこぼしたその言葉に、自分自身が答えるように、ゆっくりとうなずいた。
「――そうですね。私も……そんな気がします」
ふたりが静かにほほ笑み合った、ちょうどそのときだった。
バタン。
ノックもなく、扉が開かれた。
風が室内の空気を揺らし、リリーが思わず振り向いた。
そして目を見開く。
入ってきたのは、王・アルヴァン・グランディアだった。
「陛下……!」
マナとリリーは、慌てて立ち上がり、深く頭を下げた。
アルヴァンはふたりに一瞥もくれず、まっすぐにユナの元へ歩み寄る。
その背中には、どこか緊張とも安堵ともつかない重さがあった。
マナは少し戸惑いながら、恐る恐る口を開く。
「アルヴァン陛下……あの、その人は……私の、母です」
その声に、ようやくアルヴァンが小さく頷いた。
「……ああ。セトから報告は受けている」
彼は寝台の傍らに立ち、ユナの顔を見下ろす。
じっと、言葉を失ったように、その顔を見つめていた。
「まだ目を覚まさないのか?」
低く落ち着いた声が、室内に静かに響く。
マナはそっと前に出て、母の様子を見ながら答えた。
「はい……でも、傷も熱も何もなくて。セト様が仰るには、疲れがたまって眠っているような状態だと……」
「……そうか」
ぽつりと、ひとこと。
アルヴァンの手が、そっとユナの頬へ伸びる――
だが、寸前で動きが止まり、拳に変わって静かに下ろされた。
「……目が覚めたら、私に報告するように」
その言葉を残して、彼は扉へと向かう。
けれど、足を止めてふり返った。
「聖女マナ」
その声にマナが顔を上げる。
「この度の働き、見事だった。あの場にいた全ての者が、君の力を目の当たりにした。あんなに広範囲の癒しの力を使ったのだ……君も疲れているだろう。母が心配なのはわかるが、今日は休むといい」
マナは思わず目を伏せ、唇を噛んだ。
アルヴァンは少しだけ間を置き、深く息を吐いた。
「そして……君を牢に入れるよう指示を出したカリオンに代わり、王として詫びる」
マナは驚いたように顔を上げる。
その眼差しには戸惑いと、わずかな希望が混じっていた。
「すまなかった。君のあの圧倒的な癒しの力を見てなお、“聖女ではない”などと口にできる者はいないだろう」
その言葉を最後に、アルヴァンは背を向けて扉へ向かう。
マナは深く頭を下げた。
「……ありがとうございます、陛下」
閉じかけた扉の隙間から、風がまた、そっと室内を撫でた。




