38.再会と嵐
朝の空気はひんやりと澄んでいたが、彼らの心は、まるで午後の陽射しのように熱を帯びていた。
しばらく進むと、遠くに城と神殿の尖塔が見えてくる。
壮麗なセリオス神殿の白い外壁が、青空の下でまばゆく輝いていた。
「このペースでいけば、今日の昼頃には到着できそうですね」
馬上で風を受けながら、セトが声を上げた。柔らかくも、どこか安堵の色が滲んでいる。
「そうか……やっとだな」
ルカが小さく頷き、ユナに目をやった。
ユナもその言葉にほっと息をつき、微笑んで返す。
「……マナに、ようやく会えるんですね」
その言葉の余韻が、心の奥にじんわりと沁みていく。
――母として、ずっと夢に見ていた瞬間が、指の届くところにある。
午前の空は高く、雲は羊の群れのようにのんびりと流れていた。
一行は何度か休憩を挟みながら、川辺で水を汲み、乾いたパンを口にし、穏やかな丘陵を越えて進んでいく。
旅路の途中、ユナはふと空を仰ぎ見る。
陽はゆっくりと天頂に近づき、風はどこか熱を帯びはじめていた。
(もう少し……あと、もう少しで――)
ユナの心は、刻一刻と近づく“再会”を想い、静かに高鳴っていた。
その鼓動は、まるで遠くから聞こえる聖鐘の音のように、確かなリズムを刻んでいた。
しかし――その穏やかな空気が、次の瞬間、破られた。――音もなく、空が裂ける。
誰かが息を呑んだ音とほぼ同時に、セリオス神殿の上空に“ひび”のような黒い筋が走り出す。
まるで天の鏡が砕けていくかのように、青空が静かに、しかし確実に歪んでいた。
「……これは」
セトが呆然と呟き、目を見開いた。
「フィノアの時と同じ……結界が、崩れかけている!」
ルカが即座に叫ぶ。
ユナははっと目を見開き、あの日の記憶が一気に蘇った。
紅蓮に包まれた町、逃げ惑う人々、咆哮を上げる魔物の群れ――そして、自らの祈りによって放った断罪の光。
「まさか……また?」
息を詰めながら、空を見上げたユナの手が、細かく震える。
「マナ……」
たった一言、愛しい娘の名を呼ぶ。
あの子は、今、あの神殿の中にいる。
崩れゆく結界の下で、恐ろしい何かに晒されているかもしれない。
その呟きは風に紛れたが、隣を走るセトの耳にははっきりと届いていた。セトもまた、視線を前方の神殿に向けたまま、唇を固く結ぶ。
(なぜ……私が不在の時に、こんなことが……!)
マナは、大丈夫だろうか。いや、大丈夫なはずがない。まだ経験も浅く、癒しの力すら使えない……結界の修復など到底……。
「行くぞ、急げ!!」
ルカの鋭い声が空気を裂く。
言葉よりも早く、全員の馬が駆け出していた。
地を蹴る蹄の音が一斉に響き渡る。
風が唸り、木々が過ぎ去っていく。
ユナは鞍の前方にしっかりと手をかけ、馬の揺れに耐えるように体を伏せた。
(お願い……どうか、間に合って)
再会できたら、もうあの子を一人きりにはしないと誓った。
だからこそ、今――この時こそ、母として傍にいなければ――。
裂けゆく空が、警告のように頭上に広がっていた。
白く聳える神殿の塔が近づくにつれ、ユナの胸は焦燥で締めつけられていた。
セリオス神殿の正門に辿り着くや否や、ユナは馬から飛び降りた。
「マナは……! マナはどこですかっ!」
セトもまた馬を降り、辺りを見渡す。
しかし、神殿の中は地獄のようだった。建物の一部は崩れ、瓦礫があちこちに積み重なり、負傷した神官や巫女たちが呻き声を上げながら地に伏していた。その惨状に、ユナの目が釘付けになる。
「……いた!」
崩れた回廊の先、捲れた床の片隅で、小さな光が灯っていた。
――マナだった。
彼女は血に濡れた神官の腕を取り、震える手で癒しの術を施していた。祈るような真剣な表情で、次々と傷ついた人々に手を差し伸べている。
「マナ……!」
ユナは一気に駆け出した。
その時だった。瓦礫の影から、獣のような唸り声が響いた。突如として飛び出した魔物が、ユナに向かって跳びかかる。
「っ……!」
息を呑んだその瞬間、目の前で鋼の刃が閃いた。
「危ない!」
ルカの剣が迫る魔物を薙ぎ払い、ユナの前に立ちはだかる。
振動と風圧でバランスを崩したユナの髪留めが弾け飛び、長い髪がふわりと解けて肩に流れ落ちた。
「ありがとうございます……ルカ様……あの……!」
言いかけたユナの瞳が、ふと空を仰ぎ、異様な影をとらえる――。
――結界の裂け目。
その裂け目から、黒い靄に包まれた巨大な影が現れる。
黄金の双眸が、ゆらりと夜の闇を裂くように光った。
「……ドラゴン……!? まさか……上位魔物……っ!」
ルカが顔を強張らせ、歯を食いしばる。
その魔獣の気配は、あの時――フィノアで出現した魔物に酷似していた。
けれど、それよりも遥かに凶悪で、禍々しい力を纏っている。
その瞬間、ドラゴンが巨体をゆっくりと傾け、眼下を睨みつけた。
口元に黒い瘴気が集まり、炎を吐く前の深い呼吸のような音が響く。
その視線の先――そこにいるのは、マナ。
傷ついた人々の傍らで、必死に癒しの魔法を放ち続けている娘の姿があった。
ユナの呼吸が止まり、胸が締めつけられる。
黒い炎が、今にも吐き出されようとしていた。
その刹那、恐怖と焦りがユナの全身を駆け巡る。
「……っ、マナ……!」
ルカが咄嗟に伸ばした手を、ユナは振り払った。
燃えるような決意が、その瞳に宿る。
彼女は躊躇なく、マナの元へと駆け出していた――。
「マナーッ!!」
その叫びはマナには届かない。
ドラゴンは黒い靄を揺らしながら、その巨躯をゆっくりと持ち上げ、咆哮とともに口を大きく開いた。
そこから溢れ出すのは、まるで深淵を這い出たような、禍々しい黒炎――。
灼熱の息吹が、今まさに、マナのいる場所へと放たれようとしていた。
――間に合わない。
「……っ!」
ユナの喉が震え、胸を裂かれるような焦燥が体を貫く。
(お願い、助けて! 誰か――いいえ、違う……)
(あの子を守れるのは、私しかいない――母親であるこの私!)
その瞬間、視界の端に、足元に転がる一本の剣が映る。
血に染まり、泥にまみれたその刃は、なおも光を宿しているように見えた。
ユナは一切の迷いなく駆け寄り、剣の柄を強く握りしめた。
そして渾身の力で剣を振りかぶり――そして、投げ放った。
放たれた刃は空気を裂きながら、まっすぐに黒炎へと向かって飛ぶ。
その瞬間、剣はまばゆい光を纏い、まるで神の矢のように輝きを放った。
轟音とともに、黒き炎と白光が空中で激突する。
光と闇がぶつかり合い、爆ぜるように散った。
「……い、いまのは……?」
駆け出していたセトが、思わず足を止めた。
瞳を見開き、まるで信じられないものを見たかのように、ユナの背を見つめている。
光の残滓がまだ空に揺れている中、ユナは一切振り返ることなく、瓦礫と煙の中を駆け抜けていた。
ただ一人、ただひたすらに――マナのもとへ。
一方その頃、マナは呆然とその光景を見つめていた。
巨大な影が空を覆い、黒い靄が空間を歪めている。
そこに走る光の矢、黒炎を打ち払った奇跡、そして――何かを叫びながらこちらに向かって来ている人の姿。
(あの人はだれ? ううん、そんなまさか……)
心が問いかける。けれど答える間もなく、耳をつんざくような怒号が響いた。
「危ない! 全員下がれ! みんな逃げろッ!」
神殿騎士たちが絶叫しながら走り出す。
その言葉に応じるように、再びドラゴンの巨体が蠢いた。
闇の靄が螺旋を描きながら渦巻き、黄金の双眸がぎらりと輝く。
「グアアアアアァァ――ッ!!」
次の瞬間、ドラゴンの巨体がゆっくりと姿勢を変え、その尾で神殿の大理石の外壁を一気に薙ぎ払った。
轟音があたりを震わせ、建材の破片と石塵が嵐のように舞い上がる。
瓦礫が崩れ、悲鳴が重なる中――
ドラゴンは再び、胸の奥から漆黒の炎を集め始めていた。
狙いは明らかに、マナのいる一角。
人々が悲鳴を上げながら逃げ惑う中、マナだけは――動かなかった。
その細い腕の中には、血に染まった巫女がぐったりと倒れていた。
「だいじょうぶ……大丈夫だから……」
震える声でそう呟きながら、マナは巫女の胸元に手を当て、必死に魔力を流し込む。
けれど、額に浮かぶ汗と、ぎゅっと食いしばられた唇が、彼女の限界を物語っていた。
恐怖が全身を貫いている。手足は氷のように冷たくなり、膝をついていてもなお、その身体は今にも崩れ落ちそうだった。
それでも――
マナは、唇をぎゅっと噛みしめた。
彼女は視線を逸らさなかった。目の前でうずくまる巫女の、今にも消えそうな命の灯火を見つめていた。
「……この人たちを……放っておけない……!」
かすれるような声。それでもその言葉には、ひたむきな決意が宿っていた。
恐怖に屈することより、誰かを見捨ててしまうことの方が、ずっと怖かった。
小さな手が傷ついた体に触れる。祈るように、マナは両手を添え続けた。
その震える手のひらから滲み出る光は、やさしく巫女の胸元を照らし、命をつなごうとしていた。
――助けたい。
その思いだけが、マナをそこにとどまらせていた。
突如として、空気が震えるような不穏な気配が走った。
マナの視界の端で、何かが蠢いたかと思うと、そこには漆黒の炎が渦を巻き、禍々しい咆哮と共に空を裂いて迫り来る姿があった。
黒い炎はただの火ではない。
それは、瘴気と呪詛を孕んだ“災厄”そのものであり、見る者の魂すら焼き尽くさんとするほどの、恐ろしい意志を持っていた。
ごうっ、と耳をつんざく音と共に、地面が震える。
凶悪な熱気が空気をゆがめ、周囲の石畳がひび割れるほどの圧力をともなって、黒炎はまるで獲物を嗅ぎつけた獣のように――マナたちのもとへと襲いかかってきた。
瞬間、風が逆巻き、世界が沈黙したように感じられた。
それは、絶望が飲み込む直前の、ほんの刹那の静けさ。
マナは、覆いかぶさるように倒れた巫女を抱きしめたまま、身動きが取れなかった。
逃げる時間も、選ぶ余地も、どこにもなかった。
その瞬間、マナの視界がまばゆい光で満たされた。
強烈な輝き。けれど、目を背けたくなるような鋭さではなかった。
それは太陽のように暖かく、包み込むような光――
そして、その中に、一人の人影が立っていた。
ふわりと風に揺れる長い髪。
その姿は、凛として、揺るぎない信念をその背中で語っていた。
白く光る衣がなびき、全身がまるで“祝福された存在”のように輝いていた。
その人は、一歩も退かず、両腕を大きく広げて――
あの恐ろしい炎を、その身ひとつで受け止めていた。
灼熱の炎と、光がぶつかり合い、世界が揺れるような衝撃音が響く。
しかし、光は屈しなかった。
闇を押し返し、黒炎は次第にその勢いを削がれ、ついには霧散していった。
風が吹き抜け、舞い上がった塵の向こう――
その人は、光の中に静かに立っていた。
マナの目が、大きく見開かれる。
その背中、その姿、その温かさ――どこかで知っている。いや、絶対に忘れない。
(……まさか……そんな、はず……)
胸の奥がざわめき、涙が滲む。
恐怖に震えていた心が、ただその姿を見ただけで、ゆっくりと、ほどけていくようだった。
あの背中は、あの頃――幼い自分を包み込んでくれた、優しい光そのものだった。
立ち尽くすマナの唇から、かすれた声が漏れた。
「……お母、さん……?」
その声に、光の中で立つ人影が――ゆっくりと、しかし確かに頷いた。
けれど、ユナはまだ振り返らない。ただまっすぐ、闇に立ちはだかる巨大なドラゴンを見据えたまま、静かに口を開いた。
「……よく、ここまでひとりで頑張ったわね、マナ」
優しく、それでいて深く沁みわたるような声だった。
「あなたはやっぱり、優しくて、頑張り屋で……世界一、素敵な、私の娘よ」
その言葉に、マナの目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
その声だけで、確かに感じる――この人は、間違いなく、自分の“母”だ。
ユナは静かに、両の手を胸元で組んだ。
「もう大丈夫よ。お母さんがそばにいるから――」
――その言葉と共に、ユナの体が纏っている光が静かにあふれ出した。
それは聖域に舞う祝福のように、柔らかな金色の粒子となって宙を漂い、やがて光のヴェールとなって、彼女の全身を神々しく包み込んでいく。
やがてその光は空へと昇り、天に円を描くように広がった。
――光輪。
彼女の想いと祈りを受けて、天に現れたその巨大な輪は、まるで太陽そのもののように、あらゆる闇を照らし始める。
ユナの唇が、静かに動き始めた。
光輪が天を満たすと、その中心から無数の光の矢が放たれた。
それはまるで、黄金の輝きを纏った流星――
静謐な夜空を裂くように、鋭く、そして揺るぎなくドラゴンへと降り注いでいく。
ひとつひとつの矢が宿すのは、ただの力ではない。
穢れを焼き尽くす聖なる怒りと、すべてを包む慈しみの祈りが込められた、“断罪の光”。
黄金の閃光が空を裂き、黒き魔の影を貫いた。
「な、なんだ……あの力は……!」
「見たことがある……あの輝き……」
「まさか……あの魔力は……」
混乱の中、周囲の神官たちがざわめく。
「太陽のごとく、灼き尽くすような神聖なる魔力……!」
「……あれは……“聖女サクラ”の……断罪の光だ!!」
その名が口々に囁かれた瞬間、空に響くような咆哮が轟いた。
ドラゴンが苦悶の声を上げ、光に焼かれながら、もがくようにのたうつ。
最後の矢が心臓を貫いた刹那――その巨体は、炎に包まれ、黒い靄と共に崩れ落ちた。
轟音とともに地に沈み、震えが止む。
だが、ユナはまだ手を組んだまま、祈るように目を閉じていた。
空を見上げれば、そこにはいまだ、深々と裂けた闇の亀裂が残っている。
まるでこの世界が、いまなお痛みの余韻を引きずっているかのようだった。
ユナは、静かに息を吸い込むと、胸の前で組んでいた手をそっと天へ掲げた。
その瞬間、彼女の頭上に浮かんでいた光輪が淡く輝きを増し、
音もなく形を変えていく。やがて無数の光の筋が立ち上がり、
天へと螺旋を描きながら昇っていった。
光はまっすぐ裂け目へ向かい、その黒い亀裂にそっと触れる。
すると、空を裂いていた闇がわずかに脈動し――ひとすじ、またひとすじと、その縁がかすかに震えながら閉じていった。
祈りに応じるように、空はその口を閉じていく。
ゆっくりと、確かに、闇が後ずさる。
やがて裂け目は、完全にその姿を消した。残されたのは、どこまでも澄み渡る、静かな空。
誰もが言葉を失っていた。
兵士も、神官も、騎士たちも、誰一人として動けず、ただその光景を見つめていた。
まるで今、神話の一頁を目撃したかのように――。
光が静かに消え去ると同時に――ユナの身体がふらりと傾いだ。
「お母さん……!」
駆け寄ったマナが、とっさにその身を支える。
ユナはすでに意識を失っていた。
けれどその顔は穏やかで、まるで深い眠りに落ちたばかりのようだった。
目を閉じたその姿には、どこか神聖な気配すら漂っている。
「ねえ! 大丈夫? お願い、目を開けて……! 私、やっと会えたのに……!」
マナは震える声で何度も呼びかける。
その指先が、母の頬にそっと触れると、かすかに体温が返ってきた。
そのとき、砂を蹴る足音とともに、二つの影が駆け寄る。
「マナ!」
先に声を上げたのはセトだった。
「ああ……セト様……!」
その顔を見た瞬間、マナの胸に張りつめていたものが、ふっと緩んだ。
セトはマナに頷いてみせると、すぐに膝をつきユナの様子を素早く確認する。
「お怪我は……ありません。脈も呼吸も穏やかです。――安心してください。生命に危険はありません」
その声は落ち着いていて、マナの不安をゆっくりと解かしてくれるようだった。
「……ほんとうに……?」
マナの瞳に溜まった涙が、ぽろりと頬を伝う。
そのとき、隣で肩を落とし息を整えていたルカが、力強く言った。
「大丈夫だ。ユナは強い。しかも、あんたを追って異世界から付いてくるような過保護な母親だ、こんなところで死んだりしないさ」
そう言いながら、ルカもそっとユナの手を取る。
その表情には、冗談めいた口ぶりとは裏腹に、確かな信頼と確信が滲んでいた。
その横で、セトが軽く息を整えながら立ち上がる。
「……ともかく、まずはお部屋をご用意します。ユナ様をこのまま地上に寝かせておくわけにはいきません」
彼は騎士に合図を送りながら、マナの方へ視線を向ける。
「マナ、つらいでしょうが、ユナ様は私たちで運びます。どうか、そばにいてあげてください」
マナは静かに頷いた。
涙をこらえながら、母の手を離さずにその場に膝をつく。
「それと――」
セトはちらりとルカに視線を送る。
「ルカ、ユナ様のあの力について……後ほど、改めてお話を聞かせていただけますね?」
ルカは肩をすくめ、片眉を上げて応じた。
「もちろん。……けど、まずはこのお騒がせな母親を、ちゃんと寝かせてやらないとな」




