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35.旅路の朝と雨宿り

 朝、陽が昇る頃――

 宿の前で馬の準備をするルカの背後から、明るい声がした。


 「おはようございます、ルカ様。あれ、ちょっと寝不足ですか?」


 フィロがにやりと笑って覗き込んでくる。隣にはまだ寝ぼけた様子のヴィゼルの姿もある。


 「……別に。寝つきが悪かっただけだ」


 ルカはそう答えつつ、視線を逸らした。昨夜のことが頭から離れず、眠りは浅かった。

 ユナに気づかれぬよう、小さく息をつく。

 

 「へぇ〜? 寝つきが悪い、ねぇ……ふーん?」

 

 フィロは何かを察したように意味深に頷き、にやにやとしながらルカの顔を覗き込む。


 「まさか……誰かのことを考えて、眠れなかったとか――」


 「フィロ!」


 鋭い声が飛んだ。ヴィゼルが眉をひそめ、ぐいとフィロの腕を引く。


 「お前はいい加減にしておけ。神官長様だぞ、ルカ様は!」


 「わっ……ちょ、悪かったって。ルカ様、そんな真顔で睨まないで……冗談ですから!」


 フィロは肩をすくめ、気まずそうに笑ってルカの視線から逃げる。

 ルカは何も言わず、ただ馬具の留め具を確認する手を止めなかった。けれど、心の中にはまだ昨夜の余韻がくすぶっていた。

 

 軽く朝食を済ませ、一行は再びセリオス神殿を目指し出発する。

 今日もユナはルカの前に座り、共に馬に揺られていた。


 「セリオス神殿まで、あとどのくらいですか?」


 振り返ったユナの瞳に、ルカは一瞬だけ言葉を失いそうになる。

 馬の揺れに合わせて微かに身体が触れ合う。ふとした拍子に、彼女の髪が頬をかすめた。

 その瞬間、胸の奥で脈がひとつ、強く跳ねた。


 「……早くて三日だ。道が荒れていなければ、だが」


 「三日……」


 ユナはそっと呟くようにその言葉を繰り返し、遠くを見つめた。

 その横顔には、娘への想いがにじんでいる。


 ルカは無意識のうちに息を小さく吸い込み、わずかに姿勢を正した。

 ほんの数日前までは、この距離に何の感情もなかった。ただの移動の形として受け入れていたはずだった。

 けれど今は――わずかな触れ合いや気配さえ、どこか落ち着かず、自分でも戸惑うほど敏感になっている。

 思考が乱れるのを誤魔化すように、ルカは黙って前方を見据え、手綱を引き直した。


 ――陽の傾きはじめたころ、空の様子がにわかに怪しくなる。


 「……雨が来るな」


 ルカの呟きの通り、ほどなくして大粒の雨が降り始めた。


 「通り雨か。少し雨宿りをしよう」


 馬を進めた先、大きな洞窟を見つけた一行は、そこで雨宿りをすることにした。

 洞窟の中はひんやりとしていたが、ルカが手をかざすと、淡く揺れるような暖かな風が吹き抜け、全員の衣服をゆっくりと乾かしていく。


 「ルカ様! ありがとうございます、助かります!」

 

 とフィロが声を上げた。

 ユナは火の気のぬくもりに包まれながらも、雨の帳越しに遠い空を見上げ、静かに息をついた。


 (こうして足止めされている時間の分だけ、マナに会えるのが遅くなる……)

 

 しかし首を振り、


 「いえ、……ただの通り雨だもの、きっとすぐに止むはずだわ」


 それは誰に向けたでもない、けれどどこか自分を支えるような、小さな声だった。

 胸の奥に宿るのは、焦りとも不安ともつかない、鈍い痛みのような感情。


 「マナ……今頃どうしているの……」


 ぽつりとこぼれたその呟きは、容赦なく降り注ぐ雨粒に紛れ、空気に吸い込まれるように消えていった。

 

 ただ静かに、雨音だけが、時の流れを刻んでいた。

 やがて、どれほどの時間が過ぎただろうか。

 洞窟の入り口に垂れる雨の帳が、ほんの少しだけ薄くなっていることに気づく。

 冷たい空気の中に、わずかなあたたかさが戻りはじめていた。

 

 ふと気づいたように、ルカが振り返る。

 その視線の先で、ユナはルカの方を見て、かすかに笑みを浮かべて首を振った。

 一瞬だけ、静かな目と目が合う。

 その穏やかな気配に背を押されるように、ユナはそっと口を開いた。


 「大丈夫。ただ……少しだけ、雨が止むように祈っていただけです」


 その声はどこまでも静かで、胸の奥からこぼれ落ちるようだった。

 ユナの手がそっと胸の前で組まれる。

 祈るように。願うように。

 指先に込められた想いは、確かな熱となって微かに震えていた。

 

 ――どうか、あの子が、ひとりで泣いていませんように。

 誰にも見えないところで、痛みを抱えたまま立ち尽くしていませんように。

 そして……この雨が、一刻も早く止みますように。

 あの子の空が、少しでも早く晴れますように。

 

 その祈りに応えるかのように、ユナの身体に淡い光が宿る。

 薄く、柔らかく、けれど確かに――神聖な気配が、洞窟の中に静かに広がっていった。

 衣の裾がふわりと揺れる。

 その瞬間、ひやりとしていた空気が、まるで春の陽だまりのようにやわらぎはじめる。


 フィロが目を見開き、ヴィゼルは思わず息を呑んだ。

 ルカは無言のまま、目を細める。


 静寂の中に、祈りの波紋が広がっていく。


 次の瞬間。

 ユナの身体から放たれたその光は、光は静かに空を舞い、ゆるやかな軌跡を描きながら上昇していく。

 やがてそれは鋭い光の矢となって、灰色の雲を突き抜けた。


 ごぅ、と風が舞う。

 雷鳴もないまま、空が割れるように音を立てて裂けた。

 まるで神話の一幕のように。


 そして、差し込んだのは――祝福のような太陽の光。

 雨を払い、冷えた大地を優しく包み込む、あたたかな光だった。


 「……今のは……」


 ヴィゼルが呟く。

 言葉にならないほどの衝撃が、その瞳に宿っていた。


 「まるで……昔、聖女サクラ様が放った“光”のようでした」


 “断罪の光”は、闇を照らす太陽のように、迷いなき意志で悪を貫き――

 “癒しの光”は、夜の静寂に寄り添う月明かりのように、静かに傷を包み込む。

 その二つの光を併せ持っていた伝説の聖女――サクラ。


 今、ユナの祈りが生んだ光には、確かにその面影が重なっていた。

 ルカはそっと、ユナの横顔に視線を向けた。

 洞窟の入り口。空を仰ぐユナの横顔は、

 まるで――その身に神の光を宿しているかのように、美しく、静かで、そして遠かった。


 (――まただ)


 手を伸ばせば、すぐそこにいる。けれど、届かない。

 彼女の視線の先には、常にひとつの名がある。


 “マナ”。


 母として、そして――聖女の面影を纏う者として。

 ユナは今、その名のもとに在り、光の先を見据えている。

 ルカの胸に、言葉にできない感情が、静かに波紋のように広がっていった。

 それは憧れか、敬意か、あるいは――

 届かぬ想いという名の、彼自身も気づかぬ揺らぎだったのかもしれない。

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