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36.聖女の目覚め

 セリオス神殿の地下牢。薄暗い空気の中、マナは静かに膝を抱えていた。

 足音が響く。その音を聞いただけで、来訪者が誰なのかすぐに察せられた。


 「まぁ、みすぼらしいお姿。聖女様のはずが、牢に入れられるなんて」


 リリアナが優雅に微笑みながら、鉄格子の前に立った。

マナはゆっくりと顔を上げる。

 頬には疲労の色がにじんでいたが、その瞳には揺るがぬ光が宿っていた。


 「……何か、ご用でしょうか」


 マナは立ち上がり、凛とした声で返した。


 「ご忠告に来てあげたのよ。嘘をついて聖女を名乗るなんて、大罪もいいところ。今のうちに罪を認めて謝っておいた方が、まだ可愛げがあるってものよ」


 マナは、指先にぎゅっと力を込めた。

 悔しさと戸惑いが胸の奥に渦巻いていたが、唇は震えなかった。

 まっすぐな瞳でリリアナを見つめる。 


 「私は、嘘なんてついていません」


 リリアナの笑みが、ぴくりと歪んだ。


 「ふっ、強がっていられるのも今のうちよ。せいぜい反省して過ごすことね。……こんな場所が、あなたにはお似合いよ」


 忌々しげに吐き捨てると、リリアナはドレスの裾を翻して去っていった。

  鉄の扉が重たく閉まる音が、空気を裂いた。

 マナは、その音を聞きながら、静かに膝を抱きしめる。


 (……お似合い、なんかじゃない。私は……こんなところに閉じ込められるために来たんじゃない)


 「キキ―」


 カグヤがベッドの下から出てきてマナの膝の上に乗る。マナはその小さな体をそっと抱き寄せ、ゆっくりと目を閉じ、頬を寄せる。


 (聖女じゃなかったとしても――ちゃんと、癒しの魔力を使えた。

 あのとき、確かに、カグヤの痛みを和らげることができた。私は……偽りの聖女なんかじゃない)

 誰にも届かない心の声が、暗がりの中にそっと響いた。

 揺るぎかけた灯が、またほんの少しだけ、静かに燃え始めていた。


 その直後――神殿の鐘が、異様な音を響かせた。


 「魔物だ! 結界に亀裂が!」


 王都の空に、紫黒の瘴気が立ち昇り、結界の破れた隙間から魔物が次々と溢れ出してくる。神殿内は一気に緊張に包まれ、神殿騎士たちが出動し始めた。


 「急げ! 前線が崩れるぞ!」


 「負傷者が出ている! 癒し手を呼べ!」


 癒しの魔力を持つ者たちが次々と呼び出されるが、その数は明らかに足りない。

リリアナもまた、令嬢たちの列に並ばされていた。

 癒しの力を持つ者として、彼女は最前列に立たされると、口元を引き結びながらも、傷ついた兵士に手をかざす。


 「……下賤な者の血に触れるなんて、冗談じゃないわ……」


 そう呟きながらも、リリアナの掌からは澄んだ光が広がっていく。その光は確かに癒しの力を帯び、呻いていた兵士の呼吸が静まると、周囲が驚きにざわついた。


 「今の……リリアナ様の力……?」


 その視線を感じながら、リリアナは鼻を鳴らした。


 「当然でしょ。私は王の血を引く者よ。“選ばれた者”の中でも、特別なのだから」


 誇り高く言い放ちながら、次々と手をかざしていく。兵士たちの傷が癒えるたび、彼女の背には光の残滓が揺らめいた。

 けれど、治療を重ねるごとに、リリアナの呼吸は次第に浅くなっていった。

 手のひらに力が入らず、視界がちらつく。

 それでも彼女は、誰にも気づかれぬように背筋を伸ばし、最後の一人に手を伸ばした。

 

 「……っ、ふ……」


 無理に笑みを作ったその瞬間、膝が崩れ、地面に倒れ込む。


 「リリアナ様!」

  

 周囲がどよめく中、彼女は地面についた手を見つめた。

 そこに、もはや癒しの光は宿っていなかった。


 「嘘……私の魔力が……もう尽きたっていうの?」


 信じられないという顔でつぶやいたリリアナの瞳に、かすかな焦りと苛立ちが浮かぶ。

 “選ばれた者”である自分の魔力が、こんなところで尽きるなんて――そんな屈辱が、胸を焼くように広がっていく。


 「こんな……くだらない連中のために、私の力を使ってあげたというのに……」


 悔しげに唇を噛み、地面を睨みつけるように伏せるリリアナ。

 その時、誰かの叫びが響いた。


 「こっちに重症者が大勢いる! 頼む、誰か! 癒しの魔力を持った者はいないのか――!」


 絶望と焦りに満ちたその声に、けが人の手当てをしていたリリーがハッと顔を上げる。

 その瞳に、まっすぐな確信の光が宿った。

 

 「癒しの魔力……マナ様なら……!」


 次の瞬間、彼女は迷うことなく駆け出していた。

 濡れた石畳を踏みしめ、牢屋の門番が止めるのも振り切り一直線に牢の前へ。

 鉄格子の向こうで静かに佇むマナに、リリーは両手を伸ばしながら叫んだ。


 「マナ様……! 魔物の襲撃にあい負傷者が大勢います。命が尽きかけている者も……癒しの手が、まるで足りません……!」


 震える声に、必死の願いがにじむ。


 「お願いです、マナ様の力を――どうか、どうか貸してください!」


 そのまま振り返り、扉の前に立つ神官たちに向かって訴える。


 「マナ様を出してください! あの方なら救えます!」


 神官たちはその声に驚き、戸惑いながらも目を見開いた。


 「だが……あの方は“偽りの聖女”と認定されたはず……」


 戸惑いの声が上がるが、リリーは一歩も引かなかった。

 その声には涙さえにじみ、必死に言葉を繋ぐ。


 「違います……! 私はそばで見てきました!マナ様は、誰よりも真摯に力と向き合い、人を癒そうとされてきた方です!“聖女かどうか”なんて、今はどうでもいいでしょう!? いま必要なのは――あの方の癒しの力です!」


 一瞬の沈黙が走る。

 神官たちは顔を見合わせた。

 外では再び悲鳴が上がり、誰かが苦しげに咳き込む声が響いていた。

 迷っている時間はなかった。


 「……鍵を開けろ」


 年長の神官が静かに命じると、若い神官が手元の鍵束を取り出し、重い音とともに鉄格子の錠が外された。


 「マナ様……どうか、助けてください……!」


 神官の声は震えていた。

 マナはゆっくりと立ち上がり、鉄格子の向こうへと足を踏み出す。

 その表情に、迷いはなかった。


 「はい――今すぐ、行きます」


 まるでその一言が、誰かの救いの光そのものであるかのように。

 マナは、風にたなびく白衣を揺らしながら、負傷者のもとへと駆けていった。



 神殿の牢獄から駆け出したマナとリリーは、瓦礫と負傷者が散らばる広場へと走った。

 剥がれ落ちた石の破片、崩れた柱、そしてあちこちに倒れる人々。


 ――そこは、まるで戦場だった。


 癒しの神官たちが声を張り上げながら手当てをしていたが、それだけでは追いつかない。

 血を流す兵士、泣き叫ぶ子ども、呻き声と叫びが入り交じる。

 マナは思わず足を止め、胸に冷たいものが広がるのを感じた。


 「マナ様、こちらです!」


 リリーが振り返り、必死に呼びかける。

 そのとき、空気が変わった。

 風が止み、時間が一瞬、凍りついたように感じられた。


 「リリーさん、後ろ――危ないっ!」


 マナの叫びと同時に、影が動いた。

 神殿の壁際に潜んでいた魔物が、地を這うようにリリーの背後へ迫る。

 うねる黒い身体、鋭く伸びた爪が迷いなく彼女を狙って振り上げられた。

 リリーはまだ気づいていない。間に合わない――そう思った瞬間だった。

 マナの腕の中にいた、小さなぬくもりが跳ね起きた。


 「――キーッ!」


 鋭く高い鳴き声。

 イタチのカグヤの身体が、まばゆい白銀の光に包まれた。

 その光は爆ぜるように広がり、周囲の空気ごと一瞬で塗り替える。


 マナが思わず目を見張る。

 目の前で、カグヤの小さな体が見る間に巨大化してゆく。あっという間にマナよりも大きくなったその体に流れるように美しい毛並みは銀の絹のごとく、月光を湛えた瞳は、まるで静かにすべてを見透かしているようだった。

 伸びた四肢はしなやかで鋭く、光を反射する爪と牙には、神聖な気配が宿っている。


 「カグヤ……?」


 マナの唇が震え、その名を呼んだ瞬間――

 カグヤは風のように跳んだ。

 しなやかな身体が宙を滑るように舞い、狙いを定めた魔物の懐へ、迷いなく飛び込む。

 閃光のような一撃。

 銀の爪が描いた軌跡が、魔物を一瞬にして切り裂いた。その影は、まるで霧のように崩れ、空へと散って消える。


 だが、それだけでは終わらなかった。続くように、カグヤの背中から光が迸る。放たれた一条の銀光が、広場の空を走り、なおも迫る魔物たちを包むように貫いた。

 断末魔のような咆哮が木霊し、次の瞬間にはそれすらもかき消される。

 

 そして――静寂が戻った。

 

 辺りを包んでいた張り詰めた空気が、ふっとほどける。


 「な、なんて美しい……強さ……!」


 リリーが呆然と呟いた後、ハッとしたようにマナを見つめた。


 「マナ様……あの子、魔獣だったのですね。私、初めて見ました」


 「魔獣……?」


 マナの声は震えていた。

 リリーは息を整えながら言葉を重ねる。


 「はい。魔獣とは、精霊の血を引く神聖な存在です。普通は人の前に姿を現しません……本当の姿を見せるのは、心から信じた“契約者”の前だけだと聞いています」


 「……契約者?」


 マナは思わずカグヤに目を向けた。

 魔物たちを蹴散らした後、白銀の体を揺らしながら、カグヤは静かにマナたちの前へと歩み寄ってきた。


 その姿は堂々としていて、神々しいまでに輝いていたのに――マナの目には、どこか心配そうな瞳を向けているように映った。

 マナはゆっくりと歩み寄り、巨大な前足のあたりで立ち止まる。

 その滑らかな毛並みに手を添え、柔らかな声で囁く。


 「ありがとう、カグヤ……リリーさんを、守ってくれて……」


 彼女はカグヤの肩にそっと額を預ける。

 

  絶え間なく運ばれてくる負傷者たち。呻き声、血に濡れた布、呼吸の浅い人々。その場にいる者すべてが、手を止める余裕もないまま、懸命に動き続けていた。

 その時だった。悲痛な叫びが、混乱の中にはっきりと響いた。


 「お母さん……! お願い、目を開けて……っ!」


 その声にマナの視線が引き寄せられる。そこには、小さな女の子がいた。泥と血に汚れた頬を涙で濡らしながら、母の名を呼び続けている。傍らには、今にも息絶えそうな女性が倒れていた。

 マナの胸が強く締めつけられた。


 (あの子は――私……)


 かつて、自分も同じように母の名を呼んでいた。見知らぬ場所で、誰にも頼れず、震える声で助けを求めていた。


 (私に……本当に、癒せる力なんてあるの?)


 足が震える。手のひらが冷たくなる。けれど、少女の泣き声は止まらなかった。まるで、絶望の中に残された唯一の光のように、母を求め続けている――その声が、マナの心の奥に深く届いた。

 マナは唇をきゅっと噛みしめる。


 (……違う。迷っている場合じゃない。癒せるかなんて、分からない。でも――やらなくちゃ)


 決意が、震えた心に火を灯す。

 マナは膝をついた。両手をそっと少女の母へと差し伸べる。その指先は、まだ小さく震えていた。けれどその祈りは、真っすぐで深く、澄んでいた。


 「どうか……」


 彼女は空を仰ぎ、声を重ねる。


 「神さま。私に、もし本当に癒しの力があるのなら――」


 「この人を……いえ、この場にいるすべての人を、癒してください……っ!」


 その瞬間だった。

 マナの胸元から、柔らかな光がこぼれた。

 それは淡い銀の光。月の光のように静かで、温かく、悲しみに寄り添うような輝きだった。

 光は彼女の体を中心に広がり、風とともに渦を巻いた。傷ついた大地に、命の息吹が戻るような感覚。空気が澄み、苦しみの声が徐々に消えていく。


 リリーがはっと顔を上げた。目の前の景色が、変わっていた。

 怪我を負っていた者たちの身体から、血が消えていく。破れた服の下から、新しい皮膚が見える。  呼吸の浅かった者が、深く息を吸い、目を開く。

 

 「……これは……」


 誰かが呟いた。


 「奇跡だ……聖女さまの癒しの光だ……!」


 一人がそう言えば、次々と人々が声を上げる。歓喜と感謝、安堵と涙が入り混じり、混乱していたその場に、静かな感動が広がっていく。

 マナは、ゆっくりと目を伏せた。その頬には、静かに涙が伝っていた。でも、それはもう、迷いや不安の涙ではなかった。

 それは、祈りが届いたと知った者の、安堵の涙だった。

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