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34.揺れる灯火、遠い面影

 コン、コン――

 軽やかなノック音が部屋に響いた。


 「ユナ様、ルカ様。そろそろ夕食にしませんか?」


 フィロの明るい声が扉越しに届く。ヴィゼルの控えめな声もすぐに続いた。


 「お席、四人で押さえておきました」


 ユナは微笑みながら立ち上がると、肩に羽織っていたルカの外套をそっと脱ぎ、両手で丁寧に畳んで彼に差し出した。


 「これ、ありがとうございました」


 ルカは受け取りかけて、ふいに言葉を差し挟んだ。


 「湯冷めする。着ていけ」


 その声音には、思いのほか優しさがにじんでいた。

 だが、ユナは小さく首を横に振り、少し困ったように笑う。


 「ありがたいのですが……私には大きすぎて。裾が床を擦ってしまいます」


 そう言って、彼女は手早く荷物から見慣れた衣服――この世界に転移してきたときに着ていた、ややくたびれたパジャマの上着を取り出すと、肩に羽織った。

 ワンピースタイプの部屋着の上から、それを重ねる。どこか頼りないその姿に、ルカは一瞬だけ視線を逸らした。


 「これで行きますね」


 「……ああ」


 ユナは部屋を出て行く。

 後ろ姿を見送りながら、ルカは静かに息をついた。


 (……三十半ばの私が肩なんて出して、見苦しいって思われたのかな)


 ユナの心に、ふっとそんな反省がよぎる――が、それはほんの小さな陰に過ぎなかった。

 階下の食堂に足を踏み入れると、そこは旅人たちの笑い声と湯気の香りに包まれていた。

 粗削りな木のテーブルに陶器の器、樽から注がれた酒の匂い。陽気な音楽がどこか遠くから聞こえ、炎の灯りが揺れる。


 「こちらです、ユナ様!」


 フィロが手を挙げ、用意していた席に案内する。ルカも無言でそれに続いた。

 席に着くと、すぐに料理の注文を終えたフィロがルカの方を見て訊ねた。


 「ルカ様、お酒はどうされますか?」


 ルカは一瞬だけ目を伏せ、それから小さく首を振った。


 「……いや、今日はやめておこう」


 「えっ!? 珍しいですね。ルカ様が飲まないなんて」

 

 驚きを隠せないフィロに、ヴィゼルも小さく頷いた。


 「お身体の調子でも悪いのですか?」


 「いや……ただ、そういう気分なだけだ」


 曖昧な返答を残して、ルカは水の入った杯を口元へ運んだ。


 「では、ユナ様は? お飲みになりますか?」


 フィロが今度はユナに視線を向けた。

 ユナは少しだけ考えてから、微笑んで答える。


 「……はい。少しだけ」


 やがて運ばれてきたのは、焼き立ての魚と根菜のポタージュ、香草を添えた蒸し鶏に、ふんわりとしたパンと葡萄酒。

 湯気が立ち上り、空腹を優しく満たす香りが漂った。


 「いただきます!」


 四人が同時に手を合わせると、しばしの静寂。

 それはこの数日で初めて訪れた、心からの安らぎの時だった。

 だが、杯が進むうちに、フィロの舌は次第に軽くなっていく。


 「ユナ様って……けっこうお若く見えるんですけど、実際おいくつなんです?」


 「フィロ」


 とヴィゼルの静かな制止が入るが、当の本人はまるで聞こえなかったかのように続けた。


 「いや、ほら! ユナ様、めちゃくちゃ綺麗だから……気になっちゃって。ご結婚とか、されてます?」


 隣のヴィゼルも、いつになく饒舌だった。


 「確かに……未婚だなんて知れたら、うちの領地の男たちが競って求婚に来ますよ」

 

 「……ふふ。そ、そんなこと……二人とも、きっとお酒のせいですね」


 ユナは苦笑しながらも、頬をほんのりと染めていた。

 けれど、その視線はまっすぐ二人を見つめている。


 「年齢は三十五歳。結婚はしていません。けれど……十六歳になる娘が、一人います」


 静かに、けれどはっきりと紡がれた言葉に、フィロとヴィゼルは目を見開いた。


 「えっ!? 娘さんがいるんですか!?」


 フィロが目をまん丸にしながら、テーブルに身を乗り出す。


 「しかも十六歳って……ユナ様、何歳でお母さんになったんです!? 正直、全然そんなふうに見えませんよ!」


 「フィロ、落ち着け。少しは聞き方というものを考えろ」


 ヴィゼルが小さく咳払いしながらも、驚きを隠しきれずにグラスを置いた。


 「いやでも本気で驚いたんですって! てっきり二十代かと……」


 ユナはその言葉に、目元を細めながらふぅっとため息をついた。

 そして、わざと少し語気を強めて言う。


 「……つまり今のは、“実際にはそこそこ歳”って言いたいのね?」


 「えっ、それは違――っいや、そう……じゃないですけど! ちょっと違いますけどっ!?」


 フィロが慌てて手をぶんぶんと振る。

 そんな彼を見て、ユナは肩を揺らして笑った。


 「ふふっ、冗談よ。驚かれるのはもう慣れてるの。でも、お世辞でも嬉しいわね」


 その笑みはどこか寂しさを含んでいたが、凛とした美しさがそこにあった。

 柔らかな空気が再びテーブルを包み込み、ルカはただ黙ってその光景を見守っていた。グラスの中の水面に揺れるユナの横顔が、なぜか遠くに感じられた――。


* * *


 食事を終え、部屋に戻る。

 部屋の窓辺に吊られたカーテン越しに月の光が揺れ、蝋燭の火が部屋の空気を優しく照らしていた。


 「……ふふ、少ししか飲んでないつもりだったんですけど……ちょっと酔っちゃったかも」


 ユナが笑みを浮かべながら、自分の羽織っていたパジャマの上着を軽く脱ぐ。

 その動作がどこかおぼつかず、指先が袖口でもたつくたびに、ルカは息を呑んだ。


 やや乱れた髪から、湯気の余韻がまだ残っている。

 上気した頬、ゆるんだ目じり、そして肩に落ちる一房の髪――

 その無防備な姿に、ルカの喉が小さく鳴った。

 視線を逸らしながら、心の中で苦く笑う。


 (酒を飲まなくて正解だった……)


 ルカはユナから視線を外し、等間隔に並べられたベッドの端に腰を下ろす。


 「じゃあ、私はこっちで……おやすみなさい、ルカ様」


 ユナがベッドに身体を沈め、静かに毛布をかける。

 彼女がふうっと小さく吐いた息は、どこか遠い場所を見つめるような響きを帯びていた。


 「……マナ、ちゃんと眠れてるといいな……」


 ぽつりと零れた声が、部屋の静寂に吸い込まれる。


 「ひとりで夜を越すのは……あの子、きっと、苦手だと思うんです」


 横になりながらも、ユナの指が毛布をそっと握りしめる。

 その仕草に、ルカの胸の奥がじんと疼いた。


 静かな夜のなか、ユナの“母”としての想いが、かすかに震えているのが伝わってくる。

 そのまなざしには、どこか遠くを見つめるような静けさと、胸の奥に押し込めた寂しさが揺れていた。

 それでもなお誰かを思い、自分よりも大切な存在のために微笑もうとする――そんな、ひたむきな強さがそこにはあった。


 ルカはただ黙って、隣のベッドからその姿を見つめていた。

 どこかぎこちなく眠りにつこうとする彼女の顔は、

 この旅のどの風景よりも、心に焼きついて離れなかった。


 (――これ以上、惹かれてはいけない)


 自分に言い聞かせるように、胸の内で静かに繰り返す。

 けれど、理性とは裏腹に、視線を彼女から外す事ができない。

 肩に落ちる髪の流れ、眠りに落ちる前のかすかな吐息――どれもが胸を締めつけるようだった。

 思わず手を伸ばしたくなる。けれど、それはきっと叶わぬ願い。


 彼女の瞳の奥に映っているのは、自分ではない。引き離された愛しい娘の姿――そのまなざしは、母としての慈愛に満ちていた。

 その強さも、優しさも、自分の手には届かない。

 ただ傍にいるというだけで、こうして心が揺れるのは――あまりにも、情けない。


 蝋燭の小さな火が揺らめき、部屋の壁に淡い影を描き出す。

 言葉にもならない想いが、夜の静けさの中で胸の奥に滲み広がっていく。

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