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25.揺れる影と微かな熱

 装飾の施された回廊を、レイナのヒールが硬く鳴り響く。その足取りは、気品に満ちていながらも怒気を孕んでいた。

 ラーデンリア王国の王妃、レイナ・グランディア。

 彼女は貴族社会の華として育ち、幼い頃から完璧な立ち居振る舞いと教養を叩き込まれてきた。誰よりも美しく、誰よりも賢く、そして王妃にふさわしい存在であると、周囲にも、自らにも言い聞かせてきた。

 さらにその才覚と魔力の素質を見込まれ、かつては“聖女候補”として神殿に身を置いていたこともある。清らかな力を持ち、聖なる務めにふさわしいと称えられた時期もあった。

 だが、聖女としても王妃としても、選ばれたのは自分ではなかった。その現実を受け入れることは、誇り高い彼女にとって、屈辱と敗北を意味していた。


 あの時――アルヴァンが選んだのは、聖女サクラだった。

 民の英雄であり、世界を救う希望であった聖女と心を通わせた彼を、レイナはただ見つめるしかなかった。

 だがその聖女が、ヴァルザ封印の代償として命を落とし――空席となった王妃の座に、再びレイナの名が挙がった。

 それは愛ではなく、空いた椅子を埋めるための選択。

 それでも、王妃という立場と矜持がレイナを支えていた。

 だがその王妃という立場に、また小さな影が差し始めていた。


 「アルヴァン!」


 レイナは重厚な扉を押し開け、執務室へと足を踏み入れた。

 国王アルヴァンは窓辺に立ち、陽の沈みかけた空を眺めていた。


 「貴方、聖女マナに会ったそうね」


 レイナの声音は柔らかかったが、その言葉には明確な棘がある。


 「どういうつもり? 今回の聖女には関わらないと、そう言っていたはずでしょう?」


 アルヴァンは肩越しに振り返ることなく、低く答えた。


 「そうだな。だが、少し気が変わった」


 「気が変わった……? まさか、側室に迎えるつもりじゃないでしょうね。また異世界から来た女に……」


 レイナはその言葉の続きを飲み込んだ。だが、アルヴァンは静かに笑みを浮かべる。


 「もし、そうだとしたら――君はどうする?」


 その言葉に、レイナの眉がぴくりと動いた。


 「私たちはすでに、形だけの夫婦だ。むしろ、聖女を正妻にした方が、国のためになるかもしれない」


 「冗談じゃないわ!」


  レイナの声が鋭く跳ねた。怒りに頬を紅潮させながらも、姿勢は崩さない。


 「本気で言っているの? あのマナという娘、リリアナと年も変わらないのよ? 本気で、そんな子を王妃にするつもりなの?」


 アルヴァンはようやく振り返り、レイナと視線を交わす。


 「本気ではない。だが、聖女の力が本物なら――民も神殿も、力ある者にすがるだろう。聖女の“象徴”としての価値を……以前聖女候補だった君なら、その意味を誰よりも理解しているはずだ」


「……っ!」


 レイナは言葉を失い、唇を噛みしめた。アルヴァンはそのまま彼女の横を静かに通り過ぎ、扉へと手を伸ばす。


 「国がどう動くか――君にも見えているはずだ」


 扉が静かに閉まる音だけが、広い部屋に残された。

 レイナは一人、憤怒と屈辱に震えていた。


(許せない……異世界から来た女などに、何一つ奪わせてたまるものですか!! 手を打たなければ)


 その瞳の奥には、激情の炎が灯っていた。


 ***

 

 重々しい扉を背に、アルヴァンは足音を響かせながら廊下を進んでいた。

 宮廷の壁には、金銀細工や絢爛な織物が飾られている。だが、いまの彼の目には、そのどれもが虚飾にしか映らなかった。

 足取りは静かだが、わずかに重い。誰にも見せることのない疲労が、その背に影を落としていた。

 やがて彼は、大きな窓のそばで足を止める。月明かりが石の床に落ち、その先には遠く、神殿の塔が見えた。

 しばし黙したあと、低く吐息をこぼしながら、ひとりごとのように呟く。


 「……娘と歳の変わらぬ少女を迎え入れるなど、正気の沙汰ではない。どこかの少女趣味の貴族と一緒にするな」


 軽く頭を振ると、もう一度、ため息が漏れる。

 だが――聖女マナの魔力の素質は、確かだと聞いている。リリアナをはじめ、国内のあらゆる神殿から集められた候補者たちと比べても、質も量も別格。

 いずれ、側室に迎えよと進言してくる者たちが現れるのは目に見えていた。


「……せめて私に息子がいれば。未来の王妃として迎えることもできたのだがな」


 アルヴァンは苦く笑い、深くため息をついた。


 サクラが消えた後、抜け殻のようになった自分に再び持ち上がったのが、かつて一度は断ったレイナとの縁談だった。

 愛のない結婚――王族には珍しくもない話だ。

 子を成しさえすれば、周囲も黙るだろうと、酒に逃げるようにして迎えた初夜。

 そのたった一度の関係で生まれたのが、リリアナだった。

 以来、王室が繰り返し求めた「次こそは王子を」という声には、一切耳を貸さなかった。

 今でも、その選択は間違っていなかったと、はっきり言える。

 アルヴァンは、愛してもいない女に情をかけられるほど、鈍感でも器用でもない男だった。


 (――サクラ。君を失ってから……時は容赦なく流れていった。

 いつしか、君の声も笑顔も、少しずつ色褪せていったはずだった。

 けれど――あの少女。

 異世界から聖女として現れたというあの存在が、この世界に姿を現してからというもの……

 君の面影が、再び輪郭を取り戻すように、静かに胸の奥に浮かび上がってきた。

 忘れようとしたわけではない。

 けれど、忘れてしまわなければならなかった――その記憶が、あの瞳によって再び灯されようとしている――)


 月光の下、アルヴァンは冷えた胸の片隅に、微かな熱が戻ってくるのを感じていた。

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