24.記された祈り
セリオス神殿の奥、静寂に包まれた図書の間。
重厚な扉を開けると、埃の匂いとともに、古びた羊皮紙が紡いできた幾千の時が迎えてくれる。
マナはそっと足を踏み入れた。
(……誰も、いない)
背筋を伸ばしながらも、緊張は隠せない。
けれど今の自分には、誰にも頼らずに「知ること」が必要だった。
“聖女”としての意味を、少しでも理解したくて。
せめて、ほんの少しでも前に進めるように。
木製の棚の間をゆっくりと歩いていくと、ひとつの書架の下に、革張りの書物が並んでいた。
その背表紙に目を留める。
《歴代聖女録》
(……!)
手を伸ばすと、指先が書の表紙に触れる。
思ったよりも軽いその本を開き、最初の数ページをめくると、そこに記されていたのは――
「第十二
ページをめくるごとに、筆写者の筆致は熱を帯びていた。
“サクラは、結界石の魔力低下を受けて五大神殿を巡り、各地に力を注いでいった。
魔物との戦闘では常に最前線に立ち、剣を取り――恐れることなく立ち向かった。
癒しの光は、静かに傷を包み、疲れた心に安らぎを与えた。それはまるで夜空に寄り添う月の光のように。
そして――断罪の光は、燃えるような輝きで魔を貫き、すべての悪を焼き尽くす太陽のごとき裁きの矢となった。”
マナは息を呑んだ。
(戦う……聖女……)
その姿は、マナがこれまでに思い描いていた“聖女”とはまるで違っていた。
祈るだけでなく、逃げずに前へ出て、仲間とともに戦い、人々を護った――本物の“光”。
(……すごいな、この人。年も……今の私と、あまり変わらないのに)
指先で、書の文字をなぞる。
ページの終盤には、こう綴られていた。
“サクラは、黒帝ヴァルザとの最終戦において、自らの命を魔力の核とし、永劫の封印結界を創りあげた。
その身は光に還り、黒帝の魂ごと、この世界から消し去ったのである”
マナは動けなくなった。
胸が、重く締めつけられる。
(命を、使って……この世界を……)
思い返す。
自分がこの世界に来た理由。
「あなたには、光の資質がある」と言われたこと。
「この国を守ってほしい」と託されたこと。
(私も……あの人みたいに、命を懸ける覚悟を、求められているの?)
小さな震えが、指先から始まる。
ページの向こうで微笑むサクラの顔が、どこか穏やかに思えて、それがまた苦しかった。
(私は……そこまでのこと、できるのかな)
“聖女”という言葉の重みが、肩にのしかかる。
だけど――それでも、マナは本を閉じなかった。
怯えながらも、逃げるようにではなく、真正面から受け止めようとしていた。
(……せめて、知っていたい。私の前にいた“聖女様”が、どんな人だったのか)
そして、願う。
(私にも、この人のような強さが、少しでもあったなら――)
その時だった。
書架の間を通ってきた革靴の音に、ようやく気がついた。遅れて、誰かの気配が真後ろに立っていることを察する。
「随分と熱心に読んでいるようだな。……君が遥か遠き魂の座より召喚された聖女か?」
低く抑えられた声。威圧ではないが、自然と背筋が伸びるような響きだった。
マナはびくりと肩を揺らし、慌てて振り向く。そこには、黒髪をなでつけ、漆黒の軍装を思わせる装いをした長身の男性が立っていた。鋭い視線は冷たく見えるが、どこか疲れたような影も落としていた。
(……神殿で見たことない人。すごく整った顔立ち……だけど、ちょっと怖い)
「は、はい。そう……です。私……マナ・イシガミと申します。すみません。図書室の使用は、セト様から許可を頂いています。」
立ち上がって、ぎこちなく頭を下げる。
「……マナ・イシガミ、か」
男はその名を繰り返し、小さく間を置いた後、静かに告げた。
「私は、アルヴァン・グランディア。この国の王だ」
「……っ!」
息を呑んだ。
(こ、国王陛下!?)
椅子から飛び退くようにして姿勢を正そうとしたマナに、アルヴァンは片手を軽くあげて制した。
「かまわない」
驚きに戸惑いながらも、マナは小さく頷いた。アルヴァンはその様子を見つめたまま、机の上に開かれた書に目を落とす。
「……サクラの頁を読んでいたのか」
「はい……とても立派な方で……」
マナの声は、そこから続かなかった。感情が言葉になる前に、彼女の中で重く渦巻いていた。
アルヴァンは、視線を遠くに投げるようにして言った。
「聖女サクラは、その命と引き換えに、黒帝を封じた。彼女がいなければ、この国は滅んでいただろう」
マナは黙って聞いていた。
「だが……その結果がこれだ。結界石は徐々に力を失い、また新たな“聖女”を必要としている」
その声には、憤りとも、自嘲ともつかぬ苦味がにじんでいた。
「聖女を犠牲にしてしか存続できない国家など、いっそ滅んでしまえばいい……と、思わないか?」
「……っ」
マナは言葉を失った。
(……どうして国王陛下が、そんなことを……?)
動揺するマナの瞳を見つめ、アルヴァンはふっと息をつき、肩を少しだけすくめた。
「……戯れ言だ。忘れてくれて構わない」
そう言って、背を向ける。
マナが戸惑いのまま見送る中、国王の姿は静かに書架の間へと消えていった。
残されたページの上、サクラの名だけが、光に照らされていた。
***
図書の間の重たい扉をそっと閉じたマナは、胸元を押さえながら深く息をついた。
思考が追いつかない。アルヴァンのあの言葉の意味を、どう受け止めていいのか分からなかった。
廊下の先に、見慣れた青緑の髪が現れる。
マナは足を止めた。セトがこちらに向かって歩いてくる。いつもの穏やかな表情だが、マナの様子に気づいたのか、わずかに眉を寄せた。
「……マナ? どなたかと、お話されていましたか?」
マナは、はっとして視線を伏せる。
「……はい。あの……さっき、アルヴァン陛下がいらして……」
セトの瞳が、かすかに揺れた。
「アルヴァン陛下が……?」
そのこと自体が信じがたい、というようにセトは静かに呟いた。
(これは偶然なのか……? まさか、陛下が聖女に直接接触された……?)
陛下は国王に即位されてからというもの、神殿の運営には深入りせず、“聖女に関する一切は神殿に一任する”という立場を貫いてこられた。
干渉しない、信任している――そう言っていた。その人が、わざわざマナに声をかけるとは。
何か、心境の変化が……?
「……陛下は、何か特別なお話を?」
セトが問いかけると、マナは少し戸惑いながら首を横に振った。
「いえ……。ただ、聖女サクラの記録を読んでいたら、そのことについて少し……」
それを聞いて、セトの思考が深く沈んだ。
(聖女サクラ。黒帝封印の代償に命を捧げた、異世界から来た“戦う聖女”――王の元婚約者……まさか、それと彼女を重ねたのか?)
ふと脳裏をよぎる、嫌な予感。
(まさか……マナを側室として迎える、などという話が……?)
それはかつて何度も繰り返されてきた慣例だった。
聖女が王家と婚姻関係を結ぶことで、信仰と王権が結びつき、国をより安定させる。
だが、それはマナの望む未来なのか。
(なぜ、焦る……? これは、神官として当然の懸念のはずだ)
そう思いながらも、胸の奥にじわりと広がっていく、正体の知れない焦燥を、セトは否応なく自覚していた。
「マナ……」
気づけば、その名を呼んでいた。
「はい……?」
「……何か、陛下のお言葉で不安に思ったがあれば、どうか私に話してください。私は、聖女であるあなたを守る立場にあります。どんな些細なことでも、構いません」
マナは少し驚いたように目を見開き、それから小さく微笑んだ。
「……はい。ありがとうございます、セト様」
その笑みが、妙に胸に刺さる。
(私は、何を守ろうとしているのだ……聖女か、それとも――)
セトは自問しながらも、マナの歩みにそっと並んで歩き出した。
廊下の窓の外には、茜色の空が広がっていた。
世界は刻一刻と動いている――彼らの心もまた、知らぬうちに揺れながら。




