26.光の記憶
フィノアの街を後にしたユナは、ルカに連れられて、ノエリア神殿の奥へと戻っていた。
火を象徴するこの神聖な神殿――その最奥、結界石の祀られた聖域へと足を踏み入れるのは、ユナにとって初めてだった。
神聖な空気が張り詰めるなか、ルカは無言のまま進み、石造りの円形の間の中央で立ち止まった。
祈りを捧げる巫女や若い神官たちがこちらに気づくと、ルカは短く指示を出す。
「――フィノアの救護を頼む。ここはオレが預かる」
場に緊張が走る。直後、副神官長・レアントが即座に動いた。
「聞こえたな。神官長の指示だ。全員救護に向かう」
若い神官たちに目配せしながら、巫女たちを静かに導く。慌てることなく、しかし一切のためらいもなく。
全員が深く頭を下げ、静かに退出していく。レアントも最後に振り返り、ルカとユナに一礼すると、扉を閉めて聖域を後にした。
(さっきのユナの力……あれは聖女サクラの断罪の光に他ならない……しかしサクラはあの日、確かに魔物の王、黒帝ヴァルザを自身の命を持って封印し、この世界から消滅したはず……では彼女は一体……)
記憶の中で静かに眠っていた“奇跡”が、現実の姿を伴って目の前に現れた。
にわかには信じがたい。だが、肌に触れたあの魔力を、ルカは忘れようがなかった。
自分の中で何かが、確かに“知っている”と告げている。
それを確かめずには、前へ進めない。
「ユナ」
ルカは彼女の名を呼びながら、正面から向き直った。
「両手を出してくれ」
戸惑いながらも、ユナは言われるまま両手を差し出す。
その手を、ルカが自らの皮手袋を外して、確かな力で包み込んだ。
目を閉じ、魔力を静かに巡らせる。
その瞬間、ユナの魔力がルカの中に流れ込んできた。
まるで森の奥にひっそりと眠る、神秘の湖に立っているかのような静寂が心に満ちた。
鏡のように澄んだ水面。そこに波紋ひとつ立てぬまま、ただ立ち尽くす。
柔らかな風がそっと頬をなで、この身を抱きすくめるように包んでくる。
降り注ぐあたたかな光は、ただ胸の奥に差し込むようにして静かに広がっていく。それはふいに広がった懐かしさとともに、全てが赦されたかのような、ただ、深く穏やかな安心感だった。
――十九年前。
まだ少年だった自分は、神殿の務めにも、聖女の存在にも、どこか冷めた目を向けていた。
信仰よりも疑問の方が先に立ち、祈りの意味も、魔力の本質も、本当には信じていなかった。
それを見抜いていたのが、当時の神官長ガルド・セイランだった。
ある日彼は言った。
「心が迷うのは、悪いことではない。だからこそ――おまえ自身の目で、感じてくるといい。信じるとは何かをな」
そうしてルカは、聖女サクラがノエリア神殿の結界石へ、魔力を捧げる為の儀式に、特別に立ち会わせてもらった。
儀式の間、ヴェールで顔を隠したサクラは、静かに、厳かに祈りを捧げていた。
同年代に見える彼女に、最初は反発すら覚えた。
(こんな少女が“聖女”だなんて)
だが、結界石に手をかざしたとたん、荘厳な光が神殿中に満ちた。
空気が変わり、言葉を飲み込まれるような気配が走る。
それでも――まだ、納得しきれてはいなかった。
儀式が終わり、聖女が退室しようとしたそのとき。
突然、扉が開いて吹き込んだ風が、彼女のヴェールをふわりと舞い上げた。
とっさに手を伸ばしたルカは、それを掴み、彼女に差し出した。
そのとき――
彼女の手が、自分の手に、ふと触れた。
流れ込んできた、静かでやさしい力。
温かな、抱きしめるような神の気配。
初めてだった。
“信じる”ということが、どういうものかを肌で知った瞬間だった。
気がつけば、涙が頬を伝っていた。
ありがとう――
そう言って微笑んだサクラの顔を、ルカは思い出していた。
そして今。自分の手の中にあるこの魔力。
静かに湧き上がり、あふれ出すこの神聖な力は――
あのときと、同じだった。
目を開ける。
目の前には、心配そうに見つめるユナの顔。
その顔が聖女サクラと重なる。
ルカの目からは、いつのまにか涙があふれていた。
「……大丈夫ですか?」
ユナの声は、そっと耳の奥に落ちてきた。
その言葉に、ルカはようやく我に返ったように、指の力をゆるめるとゆっくりと彼女の手を放した。
余韻のように、あたたかな魔力の感触が指先に残っている。
「……ああ、すまない」
頬を伝った涙を拭いながら、ルカは苦笑にも似た表情を浮かべた。
けれどその目の奥には、まだ揺れるものがあった。
「――あのときと、まったく同じだった」
ぽつりと漏れた言葉に、ユナがわずかに首を傾げた。
それはルカの独白のようでもあり、誰にともなく投げかけた問いのようでもあった。
「十八の頃、まだ神官見習いだったオレは、初めてあの方に出会った。ノエリアの結界石に祈りを捧げに来た……“聖女サクラ”にだ」
ユナは何も言わず、ルカを見つめている。
「当時のオレは……聖女ってのが、ただの飾りか象徴くらいにしか思えてなかった。
だが、儀式の最後、彼女と偶然、手が触れたとき……身体の奥に、光が差し込むような感覚を覚えた。
疑っていたもののすべてが、ただ静かに、あたたかく、胸の中に落ちてきたんだ」
ルカは再び、ユナの手を見た。
指のかたち、手のひらの温度。今もそこに、確かに“あのとき”の感触が残っている気がしていた。
「……不思議なことに、あんたの手に触れた瞬間、まったく同じ感覚が蘇った。静かで、やさしくて……赦されるような、あの光が」
ユナはただ静かに耳を傾けていた。
驚きも否定もない。ただ受け止めるような静けさが、そこにあった。
「なあ、ユナ」
ルカは少し言葉を選ぶようにして、慎重に口を開いた。
「……あんたは、“聖女サクラ”という名に、心当たりはあるか?」
その問いは決して断定ではなかった。
だが、心の奥に潜む確信に、そっと触れるような響きがあった。
ユナは、わずかに目を伏せ、言葉を探すように静かに息をついた。
やがて視線を上げ、困ったような微笑を浮かべる。
「……聖女サクラ。確か、以前お話しくださった……命を賭してこの国を救った、伝説の聖女の名ですよね」
ルカはわずかに頷いた。
「ですが……その方について、私が知っているのは、ルカ様から伺った話だけでして……」
丁寧に言葉を選びながらも、ユナの声にはかすかな戸惑いがにじんでいた。
偽るでもなく、何かを隠すわけでもない――ただ、その名に対して返せるものが本当にないという様子だった。
ルカはその返答を受け止めながら、しばらくユナの顔を見つめていた。
その表情のどこにも嘘はなかった。けれど、その奥にある“何か”が、なおも胸のどこかをざわつかせる。
視線をそっと横に逸らすと、祈祷壇の奥――ノエリアの結界石が静かに佇んでいた。
かつて、聖女サクラが祈りを捧げた場所。今もなお、火の神の力を宿す神聖な石だ。
「……もし、あんたが本当に“あの光”を持っているのなら」
ルカは低く、慎重に言葉を選びながら言った。
「この結界石に、何かしら……反応があるはずだ」
ユナは驚いたようにルカを見た。けれど否定することも、警戒する様子もなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ迷うように視線を落とす。
「……反応……ですか、分かりました、試してみますね」
その声は静かだったが戸惑いの色を隠せなかった。
ユナは無言のまま石の前に進み、軽く頭を下げる。
やがて両手を、ゆっくりと結界石へと差し伸べた。
目を閉じるでもなく、力を込めるというよりは、ただ――“静かに触れようとする”。
……しかし、何も起きなかった。
空気は揺れず、光も射さず、結界石はただ、永い眠りの中に沈んだままだった。
神の気配も、火の鼓動も、まるで遠く、触れ得ぬ場所にあるように。
ユナは静かに手を引くと、何も言わずにルカのほうを振り返った。
ルカは短く息を吐いた。
(……結界石が、何の反応も示さない。つまり、彼女は“聖女”ではないということなのか)
自分に言い聞かせるように、胸の奥で呟いた。
だが――どうしても納得しきれなかった。
(あの時の魔力。あの、誰も寄せつけない断罪の光の強さは……)
たしかにあれは、“見間違いようのないもの”だった。
そして、自分が聖女サクラに触れたあの瞬間と同じ感覚――圧倒的な存在感が、ユナにはあった。
だが、それでも――もし聖女の力を持っているのならば、結界石が反応していたはず。
「……悪かったな。時間を取らせてしまって」
ようやく口を開いたルカの声には、微かに戸惑いの残滓があった。
ユナはゆっくりと首を横に振る。
「いえ……構いません。私の力で何か分かるならと思ったのですが」
その言葉には、言い訳でも謙遜でもない、まっすぐな誠実さがあった。
「ただ、さっきあんたが使った力は――間違いなく、この国において“聖女”と呼ばれる者と同等のものだ」
ルカの視線は、まるで再びあの場面を思い返しているように遠かった。
ユナは少しだけ視線を落とし、静かに答えた。
「……聖女……それは娘の、マナのことではないんですか?」
「……あんたの娘が召喚された時、各神殿の神官長が集まって“魔力探知の儀”を行った。
あのとき、オレも参加している。――さっき、あんたの手を取って魔力を確かめたのと同じやり方だ」
ルカはゆっくりと言葉を継いだ。
「その時、間違いなく……あの子の中には、圧倒的な“光の素質”があった。
清らかで、真っすぐで……そして強い。あれは、聖女として選ばれるべき者が持つ、まぎれもない力だったよ」
ルカは少しだけ自嘲気味に肩をすくめ、だが視線は真剣だった。
「では、マナには間違いなく聖女としての力があるんですよね……、そして私にも同じような力があると……。」
しばし沈黙が降りたあと、ルカはゆっくりと言葉を継いだ。
「今、王都セリオス神殿には、確かに“聖女”がいる。――おまえの娘だ」
ルカの視線が、火のゆらめき越しにユナを見据える。
「同じ時期に、異なる場所で、聖女の資質を持つ者がふたり現れたとしたら――黙って見過ごせない連中が、必ず出てくる」
ユナの瞳に、かすかな戸惑いが浮かぶ。
「……どういう、意味でしょうか」
ルカは一拍置き、低く息を吐いた。
「このノエリア神殿の周辺には、独自の影響力を持つ貴族たちがいる。もしもあんたの力を聖女”と見なせば――
王都に対抗できる象徴として、この地に縛り付けようとする可能性がある」
ユナは、まるで胸の奥を突かれたように言葉を失った。
「権力争いは、聖職の場でも例外じゃない。“ふたりの聖女”なんて話が広がれば、王都とこの地で綱引きが始まる。
そして――最悪の場合」
ルカの言葉が、わずかに重くなる。
「……あんたと娘が、意図せず“対立する側”に置かれるかもしれない」
その瞬間、ユナの瞳が大きく揺れた。
「……そんな……」
かすれた声が、唇から漏れた。
「神の代理者が二人いるという事態は、信仰を揺るがす深刻な分裂と争いの火種になる……。だからこそ、先に手を打つ必要がある。
あんたの娘がいる神殿――セリオス神殿には、あんたの存在は伏せた上で、聖女に係る人物の存在がここにいることは伝えてある。
ただ……向こうの動きを待つより、こちらから出向いたほうがいいかもしれんな」
ユナは短く頷いた。その表情にためらいはなかった。
「……マナに会えるんですね」
その一言は、あまりにも静かで、けれど胸の底に熱を秘めていた。




